「平成最後の」とか「令和初の」とか言ってるから流言飛語に惑わされるんですよ論

POPなベイベーやHAPPYなピーポーには十中八九伝わらないでしょうが、違和感強めなので書きます。

元号制に賛成とか反対とかいう次元の低い話ではなく、ヒトという生物種の認知の仕組みに関する話です。

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irasutoya.com より

「平成最後の」ブームにモヤる

4月あたまに新元号「令和」が発表されてから、世間で「平成最後の」の出現率が一段と高まっている感があります。

この勢いで改元後しばらくは「令和初」とか「令和最初の」とか言い続けるんでしょう。そんなことで大丈夫かなって思います。

なぜならそのさまが、流言飛語が拡散流通するさまと瓜二つだからです。

虚偽であるにもかかわらず、虚偽が虚偽と認知されないまま拡散するのが流言飛語です。当記事では、流言飛語を「デマ・フェイクのうち言語の形態を取るもの」とゆるく定義します。デマとフェイクの区別もしません。

「平成最後の」や「令和初の」は流言でもデマでもフェイクでもありません。それでも、言葉であることは同じです。

言葉の厄介さ

2.1 私たちは、事実の像をつくる。
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也訳)

「平成最後の」「令和初の」は、どちらも言葉です。本質的にそれ以上の何かではありません。そこにそれ以上の何かを感じるのなら、感じるあなたの問題です。

そして昨今の「平成最後の」ブームには、言葉以上の何かが付け足されて流通しているように思えてなりません。いる?それ?

言葉とは虚構(1)

言葉とは、その性質上、虚構です。

言葉の役割の一つに、この世界を写し出すことがあります。けれどもこの世界の言葉でない何かをどれだけ精密に写したとて、それはあくまで写し鏡、言ってしまえば虚像です。しかも言葉は存在しない何かも写し出せますし、そもそも、何も写さなくても構いません。

ですから虚構です。言葉にはそういう性質があります。

虚構であるにもかかわらず、言葉に実体めいた何かを感じてしまうのは、言語を獲得してしまったヒトの生態として致し方ない面もありますが、度をすぎると弊害の方が大きくなります。程度問題です。

言葉とは虚構(2)

くり返します。言葉は虚構の存在です。にもかからず、ヒトは言葉というものを、言葉を介さない体験やその他認知と同列の存在と認識しがちです。

たとえば「10億光年の彼方」を考えてみましょう。私はそれが実在するかどうか知りません。たとえ実在するとしても人類には決して実体験できません。けれども言葉でなら体験できます。ほら、もう体験しましたよね。

言葉とは虚構(3)

くり返します。言葉とはその性質上、虚構の存在です。

人は言葉に何かしらの実体があると勘違いしてしまいがちです。それがなぜなのかは、あいにく自身が疎くて詳らかでありません。さしあたりここでは、ヒトの生態のひとつと捉えておきます。

この浮世を見ていますと、実際のところ、多くの人にとって言葉によって構築される観念こそが優先される現実となっています。言語能力を獲得したがゆえの倒錯、強く言えば錯誤です。

まとめ

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irasutoya.com より

言葉でもって何かを区切るという営為が虚構のはじまりです。それが実体を伴った何かだと思っているなら、ひっくり返っています。

言葉はその本質が虚構であるにもかかわらず、同時に高い伝達能力、再現能力をもっているがゆえ、その虚実がわからなくなってしまう。言葉の虚実を取り違えてしまうのは、ヒトの悪い癖です。

虚構は虚構のままで取り扱いましょう。

だいたい平成だろうが令和だろうが何だろうが、あなたの人生の一瞬一瞬が常に最初で最後のはずなんですけどね。

こんな言説も本質的には虚構です。

え?ちょっと何言ってるかわかんないって?

しょうがない。それなら、いきものがかりでも聴いてなってこった。

♪とぅ たいっ、たいっ、退位
あいわな
JOYと、じょーいと、譲位と ポッキーなベイベー

じょいふる(2009)
いきものがかり
¥250

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