私以外も私 それはまやかしの雨
――ゲスの極み乙女。《私以外も私》
私以外も私(2020)
ゲスの極み乙女。
¥255
新型自粛ウイルスのパンデミックにより、5月の連休も例年とはずいぶん様子が違いました。
すりかえ日本語「自粛要請」をつかまえろ!と題して、シリーズでお届けしています。
これまでのあらすじ
最初の記事
すりかえ日本語「自粛要請」をつかまえろ!(1)日本語の「自」は量子的(2020/04/14)
では、「自分」「自席」を例に、同じ文面でも人により「自」の解釈が異なることを示し、なぜ「自粛を要請」がおかしい、おかしくないと紛糾するのか?
に答えました。
続くこの記事では、
なぜ、日本語では「自粛」を要請できてしまうのか?
前の記事での表現にならえば、
なぜ、日本語世界で「自」が量子的にふるまえるのか?
を考えていきます。
結論から述べると、日本人の自分は自分以外によって定まるからです。自分以外によって自分が規定されること、日本語の世界ではそれが日常茶飯の通常運転となっているからです。
「自分以外こそが自分」。日本語を話す人の総体として、それが日本人の【自】意識です。
以下、順を追って解き明かしてまいります。
この記事で言いたいこと
結論を先にまとめておきます。
- 日本人の【自】意識は、「自分以外こそが自分」です。
- 一人称性の明確な【自】意識は、近代西欧の産物です。普通の日本人にとっては、いまだ新型ウイルスのごとき異物です。
- 近代西欧的な【自】意識の生成過程を鑑みれば、「自分以外こそが自分」な【自】意識の方が、今はこの星の僻地にのみ残る、ヒト古来のあり方に思います。
- 「自粛」をめぐる違和感とは、言い換えれば、日本人古来の【自】意識と新型【自】ウイルスとの相克の構図です。
たとえばこちらのツイートなど、その相克の構図がよく表れているように思います。
だから結果として自分は「模範的市民」みたいに行動しているが、何ひとつ信念や確信はもっていない。そういう行動の仕方に、何かしら美徳があるようには思えない。そんな美徳はどうでもよくてお前が家にいるのが大切なのだ、と他者が言うとしても、私にとってはどうでもよくない。けっこう気持ち悪い。
— 坂井豊貴 (@toyotaka_sakai) April 10, 2020
- そう思い至ったとき、ぷよぷよの連鎖のごとく、あれこれつながって消え落ちてゆきました。
などと大きく吹いてはみたものの、あまりきれいに論証できなかったので、目に留まったところの拾い読みでどうぞ。
「自粛要請」論の落とし穴
4月25日付の朝日新聞に、こんな記事があるとの情報をキャッチしました。
(耕論)「自粛要請」の落とし穴 新型コロナ 依田高典さん、山崎望さん、飯間浩明さん|朝日新聞デジタル(2020/04/25付)
禁止ではなく自粛、命令ではなく要請だというけれど、どこか違和感がある。危うさや、落とし穴はないのか。
とのイントロは読めますが、この先は「有料会員限定記事」として貧乏人をしめ出すシステムとなっていました。わが財力に合わせて近所の販売店でバックナンバーを買ってきましたよ。ぷんぷん。
小見出しに、3氏の談話がそれぞれ
- 見返りなき制限には限界(依田高典さん)
- 政府の責任を個人に転嫁(山崎望さん)
- 重い負担に軽すぎる語感(飯間浩明さん)
とまとめられていました。字数が揃ってますね。すごい。
それはそれとして、いずれも私には「周回遅れの議論」をすっ飛ばしてのコメントに見えました。なので詳細には立ち入りません。
この記事では、スキップされていた「周回遅れの議論」を行います。
「自粛要請」ひいては「自粛」をめぐる違和感、これを比喩的に言うならば、日本人古来の【自】意識と近代型の【自】ウイルスとの相克の構図なのです。
この構図をふまえてからにしないと。
「カシコの理屈」に陥った「自粛要請」論
シリーズ前回のおさらいも兼ね、こちらの記事も批判検討します。
使用を避けたい「自粛させる」|毎日ことば(最終更新:2020/05/05付)
こうした「自粛要請」という表現自体は、要請する側の責任を曖昧にするものではありますが、言葉の意味するとおりに強制性が本来は強くないことも示すものであって、無理な表現とは言いにくいと考えます。少なくとも出題者は、使用を自粛すべきだとは思いません。
おおむね同調はできるのですけれども、
強制性が本来は強くないことも示すものであって
には、異議大ありです。残念ながらこれは、かしこの理屈ですね。あいにく世の人の大半は、引用した理屈を立てられるほど賢くないです。
次のツイートもまた、同様の「かしこの理屈」にからめ取られています。
「自粛要請」という強制力のない言葉を使い、自粛しないとその店名を公表し、通報とか嫌がらせとかで強制的に営業停止に追い込む流れ、絶対に間違ってる。社会がすごくイヤな方向に向きはじめてる。
— 井上荒野 (@arereno) April 28, 2020
「自粛要請」を「強制力のない言葉」と認識するのは「かしこ」だけです。ではなくて、「自粛」とは大なり小なり誰かに強いられるものと受け取っていますよね。普通の人たちは。
飛田新地終わった。。
除名は破門よりヤバイよ pic.twitter.com/IWktc82hUZ— ぶいです。 (@vtee01) April 3, 2020
ほぼ「最大火力」の用例とはいえ、むしろこちらが普通の人たちがとらえる「自粛」像に近いのではないでしょうか。
ですから、今度は反対方向の話になると、要請ではなく「自粛」そのものが緩和や解除できてしまうという、世にも奇妙な事態も出来します。
岡山 7日以降の外出自粛緩和へ 知事、限定要請に切り替え示唆 https://t.co/y5BiIv7y3y
— 山陽新聞 (@sanyo_news) May 4, 2020
青森県、休業要請延長せず6日終了 外出自粛緩和 https://t.co/prBsUpaoAg pic.twitter.com/iyz8yIbaDQ
— 東奥日報(青森) (@toonippo) May 5, 2020
国の緊急事態宣言延長を受け、今後の福井県の対応を決定しました。
これまでの自粛や休業要請を基本的に5月20日まで継続します。
そのうえで、学校は5月11日から在宅授業を開始、県外からの人の流入が少ない小規模商業施設などの再開、平日昼間の外出や家族での外食等の自粛解除をさせていただきます。 pic.twitter.com/ax51AFJlDl— 杉本たつじ(福井県知事) (@TatsujiS) May 5, 2020
平日昼間の外出や家族での外食等の自粛解除をさせていただきます。
文面どおりに受け取れば、「知らんがな」「どうぞご勝手に」となってしまいますが、文意はたぶん違うのでしょう。
こういう具合に、「自粛」はいとも簡単に主体がすりかわってしまう日本語なので、警戒は必要ですね。
普通の日本人の自粛は、「かしこの理屈」とは大きな落差があることに、留意しましょう。
一人称的【自】の起源
前の記事でも述べたように、すりかえ日本語「自粛要請」への違和感の正体とは何かと言えば、「自」に対する一人称視点の強さです。違和感の度合いは、一人称視点の強さに比例します。
違和感を引き起こす一人称的【自】意識については、その出自が比較的はっきりしています。
端的には、コギトエルゴスム、「我思う、故に我あり」のデカルトです。
18-19世紀に生きたヘーゲルは、「近代世界の哲学」「そのはじまりがデカルトです」として、こう語っています。(長谷川宏訳)
近代のこの時期に至って、思考が、自発的な思考が、原理となる。それは、一般的にいえば、キリスト教のうちに示され、プロテスタントの原理とされた、内面性の原理です。(略)この内面性の原理に即して、まさに、思考が、自立した思考が、内面的なものの純粋な頂点をなす内面的思考が、それとして打ち立てられねばならない。そうした原理をはじめて打ちだしたのがデカルトです。
さかのぼればキリスト教がルーツです。後ほど少しだけ触れます。つづき。※下線は引用者
自立した自由な思考こそが、価値のあるもの、承認されるべきものであり、そうした思考は、わたしの内面での自由な思考によってのみ生じ、わたしの思考によってのみ実証されます。同時に、この思考は、世界にとっても個人にとっても通用する活動であり原理であって、この世で価値ありとされ、確立すべきものとされるのは、人間の思考によって洞察されたものでなければならない。ゆるぎない価値をもつものは、思考によって実証されたものでなければなりません。
出典:G・W・F・ヘーゲル『哲学史講義Ⅳ』「第二篇 思考する知性の時代」
タカアンドトシでなくても「欧米か!」とツッコみたいほどの、欧米か!ぶりです。
日本人の多数が持つ、「自粛要請」が成立してしまう【自】意識とは、大きく違いますよね。ネット世間の口の悪い向きから、「欧米出羽守」などとからかわれてしまいそうです。
新型おのずウイルス
デカルトが開花させた「自立した自由な思考」に象徴される近代型の【自】。
これを、面白おかしく「新型【自】ウイルス」としておきます。
【自】の読みは、語呂的に「おのず」推奨。
孤独の「自説」経験
感染すると「自立した自由な思考」を始めてしまう新型【自】ウイルスは、普通の日本人にとってまだまだ異物なのです。
それを思い知ったのは、2年半ほど前、自分なりに裏づけを取って「ひとりでも爆笑できる」としたブログ記事に関する経験からです。
「ひとりで爆笑」問題、学術的には「できる」で事実上確定済み(2017/11/29)
おかげさまでそこそこ拡散され、公開後数日で数千のページビューがありました。
記事の中で私は、
もしもどこかで、検討に値するような「できない」派の学説に万が一にも遭遇した際には、当方までご一報をいただければ幸いです。
と募ったにもかかわらず、自薦他薦ともに今なおただの1つも来ていません。まったく相手にされていないのか、まだまだ記事の存在が知れ渡っていないのか。「爆笑はひとりでできない」って人、たくさんいたはずですが。
まるで『泣いた赤おに』です。
むしろ、公開後にたびたび目にするようになったのは、こういう論調のツイートでした。
はあ?!けっきょく爆笑誤用説は了解目上失礼説と同じように適当に産まれた風潮だったの??? 辞書にも載ってるやんけ…
— ボリゲル (@borigeru) December 1, 2017
「風潮」って使い勝手のいい言葉でござるなと感じたのでした。
この経験から、世の少なからぬ人は「自説」ひいては「自分」など持っておらず、ただただ右往左往右顧左眄、右折左折をくり返し、その場その場の勢力に付和雷同するような、極めて脆弱な「自」のあり方をしているのではないだろうかと思い至りました。
そうか、みんな自分なんていないんだ。
シン・ゴジラの間准教授みたいな感じで、ガッテンしました。
相手に合わせての自分定め
私の言う「自分以外こそが自分」のメカニズムを、昭和のひょっこりはんとして(自分だけに)名高い井上ひさしは「相手に合わせての自分定め」と著書に記しています。
井上が「書庫を建ててくれたさる建築会社の経営者」を、どう呼ぶことにしたかの説明から抜粋すると、
- むろん彼を「あなた」とは呼べない
- 苗字で呼びかけるのも他人行儀
- 「社長」では彼の会社の重役や現場監督をやっているよう
- 年上でもある
と腐心した結果「社長サン」と呼ぶことにしたそうです。続きから引用。
このように、わたしたちは相手との関係をよくよく見定めて、相手をどう呼ぶかきめる。これが〔相手に合わせての自分定め〕である。
西欧人のように「自己を中心に世界を築き、自己をあくまで主張する」ことなどはせず、共同の縄張りからあくまでものをいう。
出典:井上ひさし『私家版 日本語文法』「自分定めと縄張りづくり」
井上は、「自分定め」にからめて相手との関係を「間(ま)」と表現していましたが、私はさらに踏み込んで、間を測れる自分など「結局いない」ととらえたいです。
日本人の【自】とはちょうど印画紙のようなもので、他者という光線が入らないと、そこには何も映らないのです。
「ハーフあるある」ツイートの別解
ここをふまえると、次のようなあまり笑えない「ハーフあるある」ツイートも、少々違う景色に見えてきます。
初対面の人に「へぇ〜ハーフなんだ〜お父さんとお母さんどこで出会ったの?」と聞かれることが本当に多いのですが、私の親は大昔に離婚している上に初対面の人には話しづらい出会い方をしているのでいつも適当にはぐらかして答えていたけど金輪際回答するのをやめます。決めました。
— アシュリー/長尾梨沙 (@Ashleydayodayo) April 24, 2020
私もミックスルーツを持っていて初対面の人には必ずといっていいほど両親の馴れ初め話を聞かれます。私も自分のことではなく外国人である父の経歴などを聞きたがることに違和感を覚えていました。今までは適当に答えていましたが、答えるのを拒否するのもひとつだなと思いました。
— かとりーぬ (@somjpnkra) April 24, 2020
お互いになんとなく相手の認識を知っていると、気持ちが楽になると思うのだけど。フォローで応援、潤滑油になりたい時がある。いいねで貝から真珠が1つ誕生します。リツイートで自分に酔っている人がシラフに戻ります。#漫画 #誤解 #アナフィラキシー #真実 pic.twitter.com/RxaVBPcjuD
— 星野ルネ (@RENEhosino) May 10, 2020
「相手を知る導入としてした質問」とは、井上の言う「相手に合わせての自分定め」の典型に思えます。例によって「相手に合わせての自分定め」を始めた日本人しぐさの通常営業です。
「いや答えて」とか「だから嫌がらないで」とかいう話じゃないですよ。聞かれる側が不快になっても怒っても全然いいと思ってますので、そこは念のため。
一人称の【自】意識の側からは、「自分以外こそが自分」な【自】意識から生じる言動が理解を超えるのも無理のないこと、という話です。「自=一人称」カルチャーにがっつり浸り続けていたら、あるいは「自分以外こそが自分」カルチャーからはじき出されていたら、人称を持たない【自】意識のあり方すら、想像がつくかどうか。
「自分以外こそが自分」は、有史以前から?
さて、「自分以外こそが自分」という日本人の【自】意識は、どこに由来するのでしょう。
消去法の雑な推論ですが、「有史以前から」が結論です。
中国語との比較として、
を見てみても、漢字「自」の持つ意味に、日中間で大きな差はなさそうです。
英語のyourselfは中国語だと「你自己」といい(Google翻訳調べ)、中国語もまた一人称以外に「自」を使えそうです。
ならば「自分以外こそが自分」が中国由来の【自】意識かというと、後述するように、どうもそんな気はしないんですよね。
ふんわりした仮説ではありますが、当然に欧米由来でなく、かつ中国由来でもないのならば、消去法で「漢字伝来のはるか以前の原始の日本人から、ずっと持っていた」【自】意識だということになります。
植物がひとり笑む世界
時代は下りますが、源氏物語「夕顔」のこの記述など、いい傍証になりそうです。※下線は引用者
切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。
源氏物語 第四帖 夕顔 www.genji-monogatari.net より
反射代名詞「おのれ」の用例として辞書に載っていた一文ですが、なんだこれと目を奪われたのはむしろその周辺です。
引用元の注釈には「擬人法」とありました。いやいやいや、違いますて。
単純化して言えば、この書きようを「擬人法」ととらえてしまうのもまた、新型【自】ウイルスに冒された発想です。
違います。擬人=人に「なぞらえている」んじゃあないんです。
そうじゃなくて、書き手の【自】意識からは、人も葛も花も、その存在のありように何ら差がないんです。地続きなんです。
人と草花に何ら区切りのない【自】意識が記述した結果、葛が心地よげに這い、花が笑み眉を開く世界が描き出されるわけです。
と言い切るには、植物以外に対しても同じ傾向が認められるのか、とか、別の時代の別のテキストではどうなんだとか、いろいろ検証が足りていないのも承知なので、反証を待ちます。
「笑う」日中比較
違う例を出します。「山笑う」という言葉があります。春の季語です。その由来は
春山淡冶而如笑(春山淡冶にして笑ふが如く)
と始まる、「四時山」という漢詩だそうです(広辞苑(第五版、第七版)その他による)。そして作者の郭熙は宋の時代の人です。
この書き手の感性は、「ごとく」です。
夕顔の段をもう一度引用します。
白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。
です。「ごとく」超えてますよね。
花に「咲」の字の日本スゴイ
もっといっとくと、花が開くときに「咲」の字を使うって、かなりヤバいですよ。
というのも、「咲」の字は
- 「笑古作咲」(康熙字典 via 《咲》- 新华字典- 911查询)
- 「もと、笑(セウ)の本字」(『角川新字源 改訂新版』via 咲|漢字ペディア)
- 「笑の俗字」(『字統』)
というのが通説ですから。
ところで、「笑」と「咲」が同じルーツの字だということをご存じですか?
そうです。「咲」には「わらう、えむ」という意味があるのです。
出典:漢字コラム5 春。花は咲き、山は笑う | 歴史・文化|漢字カフェ(2016/03/29付)
犬や猿に対してならまだ「笑う」を使えますけど、植物である花が笑むって感性、エグくないですか? 超エグいですよ私には。「如く」と比喩止まりの中国人を超えてきてるし。
事実、中国語話者の中には、「咲」の字を「笑」と同じ意味と理解していながら
是日本人搞出来的字
出典:水客莫惊咲,云间比翼多是什么意思?|zhidao.baidu.com(2008/04/28付)
と、日本生まれだと誤解している人もいました。
新型【自】意識の世界
さて「自分以外こそが自分」の【自】意識が今なお主流の現代日本にも、近代西欧に端を発する「自分以外自分じゃないの」な、一人称性全開の【自】意識が幅を利かせる分野はあります。
私が知るのは、法の世界です。
法の世界には、「自然人」という概念があります。
〘法〙 出生から死亡まで等しく完全な権利能力を認められている個人。
コトバンク「自然人」大辞林第三版の解説
ぐらいの意味です。
でもこれ、ここまで述べてきたとおり、普通の日本人たちからは「欧米か!」とツッコまれてしまう、建て前ですよね。「完全な権利能力」ってなにそれおいしいの?
昔話「自然人VS.非社会人」
ここでちょっとした昔話です。
昔、別居中の嫁から離婚等を請求されて、裁判をしたことがあります。ちょうどクリスマスの日に訴状が届いて、O.ヘンリもびっくりの生涯最高の贈り物となりました。
それはさておき、私としてはどんな結論でもよかったのですが、相手方の訴えを認めてしまうと論点にならないというテクニカルな都合から、離婚自体から争う形で答弁書を書きました。
やがて年も明け、「家庭裁判所の待合室にはベビーベッドがある」などの余計な情報も得ながら第1回の期日を迎えました。原告嫁は来ません。オール欠席でした。後に「あんなもんは全部弁護士にやらしときゃいい」って言ってた。
話を戻します。本人尋問になって、陳述を求められた被告の私は
「私の一存で決まることではないですから、双方の両親やら、周囲の意見も聞きつつ、この裁判で結論を出していきたい」旨を答えました。しごく穏当かつ、常識的なスタンスだと思ったんですけどね。
ところが担当の判事は、心底うんざりした様子で「あなたはどうなんですか」と質してきたことを覚えています。それも何度か。
「ですから」とくり返しながら、内心「法の建て前キタよコレ」と思ったものです。当時そのワードを知っていたら「自然人キター」ともなっていたでしょう。
「完全な権利能力を認められている個人」なんて、渡る世間ではほとんどフィクションなのに。
結局その第1回期日の判事さんは、年度またいだら担当を外れてそれきりです。もひとつ余計な情報ですが、勝間和代さん似でした。
自粛の誕生
今一度、簡単に「自粛」の来歴についても触れておきます。「自粛」は1930年代になってから諸文献に現れる、比較的新しい日本語です。
「自粛要請」については、優れた先行研究があります。
自粛はいつから要請されるようになったのか|筆不精者の雑彙(2020/03/04付)
その問題意識につなげると、「いつから」の答えは「はじめから」です。
というのも、1930年代の段階で、既に「自粛」の正体を見抜いていた論稿が存在するからです。戸坂潤『世界の一環としての日本』(青空文庫)です。エモすぎるテキストをたくさん引用したくて、別の記事にしました。
つながる「自分以外こそが自分」の連鎖―付く®から付かないsまで
僕は自宅での一人称が『パパ』だ。「あ、それはパパがやるよ」とかね。
さすがに在宅が長すぎた。さっき「それ、先週パパが指摘したじゃん」って言ってしまった。電話会議で。オン・オフの狭間で冒した大失態。なんとなくスルーされたけど、アソシエイトとVPで一人ずつ笑ってる奴がいた。絶対許さない— なんぺい (@nanpei_real) May 18, 2020
「自分以外こそが自分」が日本人の【自】意識。
この結論に至ると、まるでぷよぷよの連鎖のように、
- 英語の名詞に単複同型があること。たとえばプロ野球12球団のチーム名のうち、広島カープだけが唯一最後に「s」が付かないことから、
- Twitterのママ垢にしばしば®が付いていることまで、
いろんなあれこれがつながって、「ああそういうことか」と腑に落ちてゆく感がありました。
上記含めて、何がどうつながるかをいちいち説明するとさらに長くなるので、リストアップだけしておきます。
- 一人称代名詞の人称がしょっちゅう二人称にすり替わること
おのれ/手前/自分/われ etc. - 結婚した夫婦に子供ができると、互いを「ママ」「パパ」と呼び合い、自分の両親が「じいじ」「ばあば」となるなど、子を中心に家族呼称の再構成が起こること
- 英語では一人称所有格の「my」が、日本語の「マイ」になると一人称でない領域にまで乱用されること
マイカー/マイホーム/マイペース/マイバッグ/マイナンバー etc.
そしてこの過去記事にも、つながった。
あとはここらの問題意識へも「連鎖」してゆきました。全部は読んでないけど。
ニカイアからカルケドン公会議まで,時代を揺るがした流血の闘争から,個体存在をめぐる新しい観念が産声を上げた.この概念こそ,近・現代まで流れ下る西欧的思考の一つの根,豊かな水源ではなかったか.
日本の近代文学者を広く襲い、その内面を覆った影のひとつに“不機嫌”という気分があった。生きることにまつわる苦痛、不安、鬱屈(うつくつ)等々の、とらえどころのないもやもやした雰囲気を、鴎外、漱石、荷風、直哉らの作品を通し、これを「人間生活の根本的な状態」という特別な意味をこめて独創的に把握した。近代的な自我形成の歴史の流れのなかで、不機嫌を20世紀の人間学のきわめて重要な概念として細密に描きわけた長篇文芸評論。
講談社BOOK倶楽部 より
日本人の生きてきた枠組「世間」とは何か。古代から現代まで、日本人の生活を支配し、日本の特異性をつくってきた「世間」の本質とは? ヨーロッパの「社会」を追究してきた歴史家の視点で問い直す。
著者は「世間」を「日本人が集団になったときに発生する力学」と考えたい。これは個人の意思とは別に相対的に独立してあらわれる集団の意思そのものである。この意思はある種の強制力をもっている。
国家による冤罪事件として知られるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件。スパイの嫌疑を受けたドレフュスは最終的に無罪になったが、日本では幸徳秋水ら一二名が処刑された。両国の違いは、どこにあるのか?答えは、日本には「国家」はあるが「社会」はないことにある。今日も何ら変わっていないこの事実に抗い、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するには?日本の未来に向けられた希望の書!
弱者で低学力な日本の私
ですからまったくの逆方向から見るならば、
又日本の治安維持法の「改正」の要点を見るがよい。どれも解釈の自由の余地を充分に残すべく「改正」されるのだ。之を法律の社会化などと考えてはならない。法律の道徳化なのである。こうなると何が合法的で何が非合法的であるのか、合理的には判らなくなる。道徳で決める他はない。非合理性で決めるというのだから、この道徳には反対も反駁も出来ないわけだ。
出典:文化統制と文化の「自粛」(1936)
とえげつないぐらいの理詰めでぐいぐいくる戸坂潤も、
そしてまた、
信ずるってことは責任を取ることです。ぼくは間違って信ずるかもしれませんよ。万人のごとく考えないんだからねぼくは。
ぼく流に考えるんですから、もちろんぼくは間違えます。でも責任は取ります。それが信ずることなんです。だから信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるんです。そうすると人間は、集団的になるんです。会がほしくなるんです。(略)自分流に信じないからイデオロギーってものが幅をきかせるんです。だからイデオロギーは匿名ですよ常に。責任を取りませんよ。
だいたい集団っていうのは責任取りませんからね。どこにでも押しかけますよ。自分が正しいといって。こういう時の人間なんてものはまあ恐ろしいことになる。でもその恐ろしいものは、集団的になると表れるぼくらが持ってる精神ですよ。悪魔ですよ。
左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに私(わたくし)なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。どうしてああ徒党を組むんですか、日本を愛するんなら。日本を愛する会なんてすぐこさえたくなるんですよ。バカですよ。
出典:なぜ徒党を組むのか(1974)
と、ブチアガる講演をかました小林秀雄も、
「自立した自由な思考」に冒された、がっつりガチの新型【自】ウイルス感染症なわけです。相当に重篤です。
合理性なんかで決めたくないし、自分ひとり責任なんか取りたくもない。それが「自分以外こそが自分」な、ごく普通の日本人の態度です。
戸坂と小林のどちらの論も、賛同できる部分が非常に大きいんですけれど、それでもジャパニーズスタンダードからは「強者の論理」「かしこの理屈」なんですよね。もっと若い時分に知っていたらきっとずっとときめいたんでしょうが、今の今へきて全力では乗っかっていけません。
はなから遠ざけられてしまっている弱者や低学力層の姿が、脳裏に浮かぶからです。良くも悪くも、老いたってことだと思います。
まとめ:そうさ僕らはエイリアンズ
話が広がりすぎたので、まとめます。
今般のCOVID-19に係る「自粛要請」に関して、パックンことパトリック・ハーランさんが、各国の対策を豆腐にたとえ、ハードな「木綿」でもソフトな「絹」でもなく、
硬くもきめ細かくもない日本の制度は、小さな穴だらけだ。まさに高野豆腐のように
出典:日本のコロナ対策は独特だけど、僕は希望を持ちたい(パックン)|Newsweek日本版(2020/05/01付) 以下引用同じ
と、穴だらけの「高野豆腐」だと述べていました。面白いたとえですね。
そのココロはこのあたりかなと。
コロナ対策も自粛で成り立つかもしれない。そして、検査も監視もあまりせずとも、感染予防はできるかもしれない。そのメカニズムは想像できないが、可能性は否定できない。
同感です。「自分以外こそが自分」な【自】意識を持ったエイリアンズが、この星のこの僻地で魔法をかけてみせることも、十分あると思います。
ただ、成功しても、どこの国にもまねできないだろうね。
そして、成果が出たら要請したおのれの功績に、失敗したら自粛した側が勝手にしたことに、とすり替えてくる日本語すりかえかめん達には、引きつづき用心しておきましょう。
♪~大好きさエイリアン わかるかい
エイリアンズ(2000)
KIRINJI
¥255
おわり
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