なんでもモザイク:新たな社会現象

日本語警察の観測レポートです。

なんでもモザイクなんだよ(谷川俊太郎っぽく)

要約すれば上の1行ですむ内容です。

神戸のモザイク

なんでも「モザイク」な人たち

ある日、タイムラインに次のツイートがやってきました。

かけまくってるそれ、モザイクじゃなくない?

私なら「ぼかし」と言います。

そこからモザイク観測を始めました。するとけっこういらっしゃいました。モザイクでないものをモザイクと呼ぶ「なんでもモザイク」勢が。

紹介できるものをピックアップします。

なんでもモザイク(Remix)

なんでもモザイクなんだよ

どうにかしてくれよ

ああたまんねえ

どうしてくれるんだよお

笑っちゃうよ
おれ死にてえのかなあ

なんでもモザイク社会の形成

モザイク観測を続けていると、5月後半から「#PR」タグ付きのモザイク投稿がちらほらと出現し始めました。

iOS/Androidアプリ「LINE Camera」のアップデートがあったためです。

バージョン 17.2.2での更新の内容が[モザイク]らしいのですが

でもPRに添付のスクリーンショットを見る限り、「モザイク」メニューの中にモザイクが見当たりません。

また、別のPRツイートでは

背景ぼかしはモザイク使うという、なんともカオスな文面となっていました。

逆に言えば、なんでもモザイク勢に存分に寄り添った仕様となっています。

ちなみに英語版でのメニュー名は[Blur]でした。訳すなら「ぼかし」です。

英語では「ぼかし」に相当する名称が割り当てられているメニューが、日本語では「モザイク」となっている。これが現実です。

なんでもモザイク社会が、既に始まっています。

モザイク過剰考察

あとはいらぬ考察です。

結論を先に書くと、なんでもモザイク勢の台頭によるなんでもモザイク社会化の流れは止めようがありません。よしんば止められたとて、止めるべき筋合いのものでもありません。

実在しない会話を例に

なんでもモザイク勢に、溶けてなくなっちゃいそうなおれの気持ちをどう伝えたものか。

ひとつの試みとして、実在しない「なんでもブランコ」勢をこしらえてみました。

実在しないなんでもブランコ勢との会話は、さしずめこんな具合です。

これはブランコです

ブランコです

鉄棒です

ブランコです

すべり台です

ゆあーん ブランコです

ジャングルジムです

ゆよーん ブランコです

シーソーです

ゆやゆよん ブランコです

いかがでしたか?

この実在しないやりとりをどう感じるかは人それぞれでしょうが、かなり気味が悪い部類に入れてよいのではと私は思います。

ロバストなスタイル

「なんでもブランコ」スタイルは、間違えているのでしょうか。答えは「否」です。

個別具体的に呼んでゆくスタイルは、次のようなケースに出会うと、いとも簡単に破綻するからです。

??

ブランコです

当然の帰結ではありますが、「なんでもブランコ」は堅牢性=ロバストネスの点で優れたスタイルです。

ヘミスフィアクライマーのように、その名を呼ばれることはまずない悲しき遊具たちが、世の中には数多く実在します。

見た目から役目へのクラスチェンジ

なんでもモザイクに戻ります。

モザイクは、その見た目を指す言葉です。「モザイクタイル」や「モザイクアート」といった用法は今なおそうです。

けれどもなんでもモザイク勢にとって、モザイクはその見た目ではなく、役目を指す言葉です。

あくまで推測ですが、世の中の「モザイク」に出会ったとき、なんでもモザイク勢はその見た目ではなく「そこに写っているものを隠して見えなくする」ことをそう呼ぶと理解したのでしょう。誤解なんですけどね。

その誤解を正すことは無益です。なぜなら、「そこに写っているものを隠して見えなくする」役目を担う画像処理をまとめて呼べる言葉が存在しないからです。

別の言い方をすると、「なんでもモザイク」ボケに対して「それはモザイクじゃなくて、○○」とツッコもうとしても、○○に入る適切なワードがないのです。「ぼかし」や「スタンプ」や「黒塗り」を入れたところでかみ合いません。なんでもモザイクの焦点は「役目」だからです。役目の話に対して見た目を訂正するのは、ずれています。

くり返すと、「公園にあって遊べる」役目を担う設備をまとめて呼べる「遊具」のような言葉が、「隠して見えなくする」画像処理の世界に見当らないこと。これが、なんでもモザイクの背後に横たわる問題です。

ですからもし、なんでもモザイク勢から「ぼかしだのスタンプだの黒塗りだのジッターだの、なんでいちいち見た目の違いによって呼び分けなければならないのか? 全部モザイクでいいではないか」と問われたら、私には返す言葉がありません。

私も、多少の例外はあるものの、草や葉っぱや虫に対して同じスタンスだからです。なんでも草、なんでも葉っぱ、なんでも虫、いっしょくたです。

「レタッチ」「修整」は却下

ひとつ補足しておきますと、なんでもモザイクの代案となり得る言葉として「レタッチ」「修整」があります。しかし現実として却下されています。

修整の役目は「きれいにする」であり、「隠す」に使うのはヘンだ。日本語話者は総意としてそうとらえている様子です。

語学界隈の先例:冠詞

見た目から役目へのクラスチェンジを果たした先例を探すと、語学界隈にありました。「冠詞」です。

こちらのツイート主が表明する違和感を理解するのに2,3分かかって、気づきました。

正直初見では「ちょっと何言ってるかわかんない」でした。

想像でものを言うと、「冠詞」という用語が生まれたのは、参照したその言語で「冠」の位置にあったからでしょう。つまり見た目そのまんまの見た目発祥です。しかし後年他の多くの言語を比較対照すると、冠詞が冠の位置にあったのは「たまたま」でした。

「後置定冠詞」とは、いわば「どうするんだ! 上陸はあり得ないと云っちゃった後だぞ!」(シン・ゴジラ シーン49)の産物です。

ともかくツイート主の違和感は理解できました。けれど賛同はしません。理屈はわかりましたけれど、わかったうえで依然「後置定冠詞」に対してかけらも違和感を覚えませんので。

というのも、冠詞に対する私の理解は「存在者の種別を示す識別情報のようなもの」だからです。すなわち、要所は役目のみにあります。「冠」かどうか、見た目のことは完全に忘れ去っていて、もはやどうでもよくなっています。

まとめ

なんでもモザイク勢を核としたなんでもモザイク社会が既に始まっていることがわかりました。

国語辞典の「モザイク」も、今はまだ「格子」「碁盤目」「ブロック」「タイル」などによって、その見た目が説明されています。けれどもなんでもモザイク勢がこのまま年を取っていけば、いずれその見た目を離れて役目のみに注目した記述となりそうです。

なんでもモザイク社会を反映した「役目モザイク」が国語辞典界に登場するのは、次の次の『三省堂現代新国語辞典』第九版から、と予言しておきましょう。

『自選 谷川俊太郎詩集』から、「庭を見つめる」(2007)のエンディング部分を抜粋して、お別れです。

言葉からこぼれ落ちたもの
言葉からあふれ出たもの
言葉をかたくなに拒んだもの
言葉が触れることも出来なかったもの
言葉が殺したもの

それらを悼むことも祝うことも出来ずに
君は庭を見つめている

おわり

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