第1集の「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」パターン
から引きつづき、「人流 感染爆発と嫌悪の2021年」と題して(題さない)お届けします。
要約:Executive Summary
「人流」それ自体にも嫌われる原因はあります。
人流が持つ次の性質が、日本語のしくみとことごとく相性が悪いことです。
- 漢語である
- オブジェクトである
- 動く
人流への違和感、中国語なら成立しない説
調べてみると、中国語にも同じ意味の人流がありました。COVID-19流行前の用例からひとつ。
每个人和他的伴侣走在人流中都希望被人注视/恋人とデートしている時、人は皆、自分たちが注目されたいと願うものだ(難易度:★★★☆☆)ポイント:伴侣bànlǚ=伴侶/人流rénliú=人の流れ/注视zhùshì=注目する/ドラマ「私が誰か聞かないで」より #中国語
— 【公式】中国テレビ★CCTV大富 (@cctv_daifu) June 27, 2017
さて、広義の中華人民も、こうした人流に「人をモノ扱いしている」などの違和感を持ち、それを表に出す人がいるのでしょうか?
探してはみたものの、中国語圏のインターネット事情に疎いせいか、簡単には見つけられませんでした。
仮に「中国語世界に、人流に違和感を持つ人はいない。いたとしても、きわめてまれ」と結論づけておきましょう。そうすると、「人流」への違和感とはひとえに日本語固有の問題となります。
「人流」を撫でる人々に答える
「人流」への違和感とは日本語固有の問題である。
次のような、人流へのよくある違和感にぐるぐると答えることで、それを解き明かしてゆきます。
人流って造語・新語なのか。物流からの連想なんだろうけど、人は物じゃない!って強く言いたい。
人の出歩きのことなら人出とか人の流れでいいじゃないか。— てらぽん (@terapon9) April 21, 2021
当記事で扱う論点がぜんぶ出そろっていたので代表として引用しました。それ以上の他意はありません。
日本語固有の問題であることを、以下で数学的に(ウソ)証明してみました。
漢語だから
最大の理由は「漢語だから」です。
人は物じゃない!
そのとおりです。人は人であって物じゃないですね。
では質問です。「人物」って、人ですか?物ですか?
「人物」にも同じように、「人は物じゃない!」って強く言ってみます?
とか混ぜかえすのも意地が悪いので、これぐらいにしておきます。
「人流」から「人は物じゃない」への論理
問題にしたいのは、「ここでなぜ、そんなことを持ち出すのか」です。
思うに、「人流」にふれて「人は物じゃない!」と反応するに至るまでに、
- 人とモノは、互いに区分するべき存在である
- 人とモノには、それぞれ別の語彙を割り当てる
- 「人流」はそのルールに抵触している
こうした内的定義と判定プロセスがありそうです。
そうすると、どうも日本語というのは、他の言語と比較して人とモノの区分が強いか、または両者の格差が大きいか、あるいはその両方なのではないか。そんな気がしてきました。
間接的な証拠ならあります(確証バイアスともいう)。以前、25か国語ぶんの「アナと雪の女王」のタイトルを調べてみると、「アナ」に「女王」と、「ヒト語彙」を2つも放り込んでいるのは日本語だけでした。英語の「Frozen」を筆頭に、8割は「モノ語彙」でした。詳しくはこちらで。
ならば日本語がどういうルールで「モノ語彙」と「ヒト語彙」を定義し運用しているのだろう。そこが気になりだして研究し始めたばかりです。研究ノートはこちら。
結論を出すまでにはまだしばらくかかります。
人をモノ扱いしている
人流が「人をモノ扱いしている」とする違和感もときどき見かけます。
これは、わかる面もあります。でも、なんでそう感じてしまうんですかね。
なんで?
なんで「人流」は「人をモノ扱い」なの?
「チコちゃんに叱られる!」ではないですが、ボーっと生きてるヤシロちゃんもそっちが気になってしまいます。
「人をモノ扱い」する日本語たちを求めて
そこを知りたくて、人をモノ扱いしていることばを辞書で探してみました。
- 人垣(ひとがき)「多くの人が垣のように立ちならぶこと。」(広辞苑 第七版)
- 人波(ひとなみ)「大勢の人が押し合って動くさまを波にたとえていう語。」(大辞林 4.0)
がありました。今まで見逃していましたが、全くけしからんですね。人は物じゃない!
とっくの昔に発見した先人がいるに違いないと、これらに「モノ扱い」を組み合わせてTwitter検索してみたのですが、記事執筆時点でヒットは皆無でした。マジで0件。
人をがっつりモノ扱いしている人垣と人波に、誰も文句を言ってなかった。
一方で、
- 人材(じんざい)「才知ある人物。役に立つ人物。」(広辞苑 第七版)
- 人脈(じんみゃく)「姻戚関係・出身地・学閥などを仲立ちとした,人々の社会的なつながり。」(大辞林 4.0)
には、少ないながら「モノ扱い」とする表明がありました。
大辞林によると、人脈は〔「山脈・鉱脈」をもじった語〕だそうです。しっかりモノ扱いですね。
その違和感、漢語へのよそ者感では?
Twitter世間で人垣と人波への違和感表明がマジで0件だったのは、なんででしょうか?
ここですかね。
- 人垣と人波は、和語です。
- 人材と人脈は、漢語です。
- そして人流も、漢語です。
となると「人をモノ扱い」というのは、人流に違和感を持つ理由としては偽りのにせもので、より真実に近づけて変換すると「それを漢語で言う?」じゃないんですかね。
よくある次の「対案」に、それが表れているように思います。
「人の流れ」や「人出」でよくない?
そうですね。そうすれば漢語の「人流」を使わなくてすみますよね。
同じように
- 「武士」ってなんだよ。「さぶらひ」や「もののふ」でよくない?
とか、平安時代の人も言ってたかもしれませんね。というのは冗談ですが。
それでも、「人の流れ」や「人出」でよくない?を成立させたいなら
- 物流ってなんだよ。「物の流れ」でよくない?
も成立させないと、負けですね。
勝ち負けの話ではないですけれど、少なくとも論理的な一貫性は、欠いてます。
裏を返せば、「物流」はオッケーなんですね。ここすごく不思議ですね。のちほど改めて考えてゆきます。
「人の流れ」や「人出」でよいか?よくないか?
ハムレットではありませんが、それが問題です。
まじめに答えると、よいといえばよいし、よくないといえばよくないです。
マンスプレイニング・日本語ボキャブラリーの成り立ち
ごく簡単にマンスプレイニングします。
現代日本語のボキャブラリーというのは、ほぼデコレーションシフォンケーキのようになっています。つまりこういう具合です。
けれども1500年前、6世紀あたりまではこんな姿でした。
Chiffon cake from commons.wikimedia.org
ごく一部にしても、日本語の中にはプレーンなやまとことばのみで作られていた時代の感性が残っていて、何かの機会にあらわになる。
「人流」への違和感を見ていると、そう思わされるふしがあります。
漢語にしてみれば、日本語に入ってきて1500年以上になるのに、その場その場の都合でよそ者扱いされるって、救いがないですね。デコレーションのクリームもフルーツも、ケーキの一部でしょうに。
漢語が担う「品格」
日本語の中で、漢語、シフォンケーキの比喩で言えばデコるクリームの部分が果たしてきた役割とは何でしょうか。
いろいろな答えがありそうですが、大きいのは「formality」、品格でしょうね。いろんな意味で。
「漢語の品格」ケーススタディ
一例を挙げますと、こういうのがあります。画像検索して見つけました。これ、なんでしょうか?
そうです。みかんの皮です。けれども検索したキーワードは、漢語の「陳皮」です。
漢方の世界には、「陳皮」と呼ばれる生薬があります。
要は「干したみかんの皮」なんですが、漢方で陳皮を「みかんの皮」と呼ぶのは、それがなんであるかを(日本語で)説明する文脈でのみです。
「陳皮」と「干したみかんの皮」の両者はどちらも同じ事物を指していますが、ことばにはっきりと役割分担があります。
- 陳皮ってなんだよ。「みかんの皮」でよくない?
って言ってみますか?
言ってもいいと思います。
小まとめ
漢語は、日本語ボキャブラリーの中で格調高さを受け持つ半面、距離を感じるよそよそしさも持ち合わせている。その点でいまだ日本語にとって「外部ライブラリ」である。そう言えそうです。
話はそれますが、数字の読み方は漢語体系が優勢ななか、「4」「7」の読みだけがしばしば「し」よりも「よん」、「しち」よりも「なな」の和語が優勢となる現象は、ひと言で言えばformalityのほころびではないのかな、そんなふうに思っています。詳しくはまたいつか。
オブジェクトだから
考察結果を取り入れながらくり返しますと
- 「○流」の形で使う漢語の流(りゅう)は、もっぱら物に対して使う「モノ語彙」である
- 「モノ語彙」を人に適用している点で、人流はルールに反している
こんな論理がありそうです。
ここに当てはめると、物流はもろ「モノ語彙」なので漢語の○流で全然オッケー。という話になります。
細かく見ていきましょう。
「流」のモノ語彙性をより分ける
漢語の「○流」は、モノ語彙なのでしょうか? 答えは「部分的にYES」です。
「○流」がモノ語彙となるのは、それが水や気や血のような具体的な存在である場合に限られます。
なのでモノ語彙でない流もあります。概念として存在する、抽象的な「流」です。
たとえば、MLBで投打にわたり活躍する大谷翔平選手のことを、人は「二刀流」といいます。
大谷選手はモノ扱いされているのでしょうか?
たぶんされてませんし、呼ぶ側もたぶんモノ扱いしてません。
となると、抽象的な「スタイル」のような意味あいを持つ流は、モノ語彙に含まないが結論となります。
大谷さんを「二刀流」や「超一流」と呼んでも「モノ扱いしている」的違和感をふつう持たれないのは、その流が抽象的な流だからです。
と、言いきってみるのがオレ流です。
動くから
漢語であることを除くと、人流がもたらす気持ち悪さは「動くオブジェクト」であることに由来します。
人材や人脈以上に人流が違和感を持たれているのも、それが「動く」からでしょう。
人流は動きます。人波や「人海戦術」の人海も動く存在ですが、そこを特段に重要視されないこともままあります。一方で、人流の表現は常に「動画」であることが特徴的です。
人流データは、必ず「動き」で表されます。時間的経過にともなう推移を表すケースはもちろんのこと、最低でも過去のある1時点や、あるいは別のある地点と比較しての差分で表します。
人流を「静止画」のスナップショットで表すことは通常ありません。
なので次のような画像のさまを「人出」や「人波」とは呼べても、厳密には「人流」とは言えません。あくまで瞬間をとらえた、静止したものにすぎないからです。
pakutaso.com より
そこが、静止画でもオッケーな人出や人波、あるいは人海との大きな違いです。
もしこの画像が人流のイメージとして成立しているというなら、それは見る側が動きを補っているからです。
マンスプレイニング・存在を区別する現代の日本語
たびたびのマンスプレイヤーです。
日本語は、モノ語彙とヒト語彙で、存在を表す動詞を使い分けます。
- モノ語彙の「何か」なら「ある」です。
- ヒト語彙の「誰か」なら「いる」です。
「何か」に「いる」を使うこともあります。その何かが動くときです。
ケーススタディ:箱の中身は何でしょね?
バラエティーの定番企画「箱の中身は何でしょね?」で考えてみましょう。
MCの説明は「箱の中に何があるかを答えていただきます」ぐらいになるでしょうか。
解答者がこわごわ手を差し入れてゆくと、何か当たる感触がします。そのとき彼または彼女は「あ、ありますね」と言うでしょう。
すると突然、箱の中の何かが音を立てて動き、手にぶつかってきました。
驚いた彼または彼女は、きっと「あ゛~~何かいる!」と叫ぶでしょうね。
何か「ある」。動くと「いる」。
例外も認めつつ、何らかの存在を表すときの「ある」と「いる」の最大の使い分け基準は、「動く」です。
「動く」だけが条件ではありませんが、「動く」が最大の基準です。
「箱の中身は何でしょね?」の続きを例に考えてみましょう。
正解は、ラジコンカーでした。
さっき「何かいる」と叫んだとしても、解答者の彼または彼女が正解を知って「ラジコンカーがいました」とはたぶん言わないでしょうね。
それがどういうことなのかを考えてゆく価値は十分すぎるほどありますが、ここではこれぐらいにします。
比較的新しい分岐
動く存在を含むヒト語彙に対して「いる」を使うようになったのは、日本語の歴史の中ではごく最近のことです。
少し古い日本語では、ヒト語彙にも「ある」を使います。
たとえばデカルトの「我思う、故に我あり」とか、野口雨情の「可愛七つの子があるからよ」とか。
もっと昔の例だと「昔、男ありけり」なんてのもありますね。
まとめ
人流への違和感には、日本語のしくみも深く関わっていることがわかりました。
出てくる文脈や使う人物が気に入らない「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」パターンや「見慣れた物事を耳慣れない言葉で言われた驚き」パターンだけではすまない部分が、あったわけです。
一部重なりますが、
- よそよそしい漢語である
- 動くオブジェクトである「○流」に、人を当てはめている
こんな要因でした。
人流のモノ語彙性を、人である自身がどれだけニュートラルに受け取れるか。人流に抱く違和感の強さは、そこの受容度の度合いに反比例しているように思います。
今後の課題
ヒト語彙寄りの「動く」という性質を持つにもかかわらず、具体的な流がどういう理路でもって「モノ語彙」と見なされているのか。そこはわかりません。いまだ謎です。
ひとまずの仮の答えとして「モノ語彙とヒト語彙の区分強化の動きがごく最近始まったばかりで、ゆらいでいる途上だから」としておきます。
そんなところです。
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