すりかえ日本語「自粛要請」をつかまえろ!(1)日本語の「自」は量子的

にゃっはー!

きょうもとっておきのすりかえもんだいをもってきたぞ

2020-04-01_204522

※YouTubeムービー「映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!」よりキャプチャ

自粛

じしゅく?


すりかえすりかえ
すりかえチェ~ンジ!

自粛を要請

じしゅくを、ようせい?

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@eiga_okaasan を元に加工

おねがい、いっしょにかんがえて!

めくるめく「すりかえ日本語」への招待

めくるめく、すりかえ語の世界へようこそ。

日本語の中には、行為主体のすり替わった語句があります。私はそれを「すりかえ語」と呼んでいます。

すりかえ語の例「課金」

ひとつ代表例を挙げると、昨今の「課金」です。

お金を課す(=負担させる)から「課金」です。税を課す「課税」と同じように、「課金」の場合も、それは元々お金を取る側の行為を指していました。

ところが昨今の「課金」は、お金を出す=取られる=負担する側が使うワードとなっています。

きょうび「課金勢」といえば、お金出してる人たちのことです。

日本語すりかえかめんのしわざです。

にゃっはー!

要約:Executive Summary

「自粛要請」も、すりかえ日本語です。

分解すると

  1. 無人称から一人称までのグラデーションを持ち、量子的にふるまう[]の多義性に
  2. マイルドでも他者への介入であることに違いない[要請]が加わり
  3. そして、何か「する」でなく「しない」に焦点を当てたものいいの[]が彩りを添える

こういう構図になっています。

日本語「自」が持つすりかえ構造

そう。実は「自粛」、というか「自」の一語が既に、すりかえ構造を持っているのです。

「自」は一人称であると同時に、何人称にでもなれるのです。びっくりですね。死んだシュレーディンガーの猫も生き返りますよ。

そうなんです。日本語世界での「自」のふるまいは、すこぶる量子的なのです。

日本人の【自】意識

そして、“日本語を話す人”の意味での「日本人」の【自】意識もまた、ここに強く作用しています。簡単にまとめると、日本人にとって「一人称の自」はレアもの、レアキャラなんです。

大半の日本人にとって【自】とは、ちょうど排他的な論理演算を行って求められるBoolean値みたいなもので、「相手」や「周囲」により定まるのです。

「自=一人称」派の諸姉諸兄も、ここを見誤ってはいけません。「自=一人称」タイプは、日本語世界では新人類なんです。「新人類」って言葉が古いけど。

以下、「おかいつ」こと「おかあさんといっしょ」のフォーマットにのせてお届けします。かなりの長編となりますので、お暇な方だけお付き合いくだされば結構です。

妄想おかいつ「おじさんといっしょ」―「自粛要請」の回

♪~>パラッパラ パラッパラ パパパパパパパパン<~♪

みんなー、げんきー?

おじさんとおばさん(おじさんの嫁)も、げんきー!

みんなは「じしゅく」って、したことある?

おじさんもみんなに、じしゅくをようせいしまーす

検証・「自粛を要請」への違和感

収集したツイートを中心に構成します。

「自粛を要請」にイラッ。ツイート2020

ある日「自粛を要請」にイラッとしているこちらのツイートがバズっていました。

太古の歌姫もまた、かつてこう告げたと伝えられています。

「自粛要請」違和感への反応

以来しばらく、引用リツイートを追いかけていました。反応は3つに分かれていました。

  • ほんとそれ!勢
  • 言われてみれば…勢
  • どこが?勢

最後の「どこが?」勢の反応を、次項でいくつか紹介します。

どこが?勢

感情的な反発でなく、むしろ端的な疑問あるいは異議を表明していると承れたものをピックアップしてみました。

今月のうた

元ツイートに「でさぁーね」と感じたおじさんがうたいます。

それがどうかしたのかと尋ねられたらオレはそいつに
自殺を勧める以外手がなくなる
だからそんな悲しい事言わないで

プラネタリウム(1997)
BLANKEY JET CITY
¥255

解説

というわけで、「ほんそれ」勢からの解説としては

という話です。

有効な反論:自習は?

ところが、引用リツイートでの反応を追いかけていると、違和感への有効な反論をひとつ見つけてしまいました。こちらです。

休むに似たりな前半はスルーして、おじさんの私が有効と認めた反論は最後のここです。

学校で「みんな自習してなさい」って言われたこと無いのかな

うーん、確かに。

ふり返ってみると、おじさんにも小中高の在学中に幾度となく「自習」の時間があったはずですが、自らの意思でもって自発的に自習」をした記憶は皆無です。

そこから私にも、太古の歌姫が歌姫なる呼称に抱いたのと同じように

「自○」ってなんなん?

との疑問が起こったのです。

未完の「答え合わせ」

時を同じくして、こんな質疑応答もありました。

(中略)

たいへん! じしょをつくっているえらいせんせいも、まだぜんぶみやぶれていないわ
ことばのもんだいを、おきもちやぎょうせいせさくのもんだいにすりかえているしまつよ!

すりかえかめん、もういっかいみせて!

コホン、まだみやぶれないのかな?

自粛を要請

ヒントは「きみ」に「しろみ」だよ。にゃっはー!

先にネタばらし

少しだけ、先にネタばらしします。

「自粛を要請する」という日本語に少しだけ違和感を感じてしまうのは何故でしょうか。

それは「自粛」という言葉――より厳密には日本語の「自」――が、量子的だからです。「量子的」というのは、ここでは「自」が一人称であると同時に無人称でもある、ぐらいの意味です。

「少しだけ」感じてしまうというその違和感の度合いは、「自」に感じる一人称性と比例しているはずです。

詳しくは後半で。

ヒントのダジャレもネタばらししておきますね。

それは、二人称に呼びかけていた「きみ」に「しろ(み)」が、いつのまにか一人称にすりかわるからだよ!

そのときにはあらふしぎ。じしゅくをようせいしたがわのそんざいは、きれいさっぱりきえさってしまうんだよ!

~幕間~

さてさて、故きを温ね新しきを知るなどと申しますように、古い話にあたってみると、ああなんだそうかとひょっこり答えにたどり着く、なんてこともよくあるのでございます。

ひょっこりひょうたん島(1964)
前川陽子
¥153

今回の調査研究では、井上ひさし『私家版 日本語文法』(1984)の「自分定めと縄張りづくり」「ナカマとヨソモノ」の段が、いいガイドラインになりました。

はい、ひょっこりはん。

答え合わせ:日本語の【自】意識について

前述の結論をくり返します。

なぜ「自粛」が、行為主体のすりかわった「すりかえ語」になってしまうのか?

理由は大きく2つあります。

  1. 日本語世界の「自」は、人称にグラデーションを持つ。
  2. 大半の日本人にとって、【自】は「相手」や「周囲」により定まる概念。一人称発信の「自」は、実はレアもの。

以下、順番に説明していきます。

パート1:日本語「自」の量子的なふるまい

日本語の「自」は、無人称から一人称までのグラデーションを持ち、量子的にふるまいます。

シュレーディンガーの猫の思考実験になぞらえて言えば、箱を開けるまでどころか、箱を開けてからも、生きていたり死んでいたりするのです。

どういうことか、以下に示します。

人称代名詞

人を指し示す代名詞のことを、「人称代名詞」といいます。

覚えなくていいですが、一人称を「自称」、二人称を「対称」、三人称を「他称」、「だれ」のような不特定の場合を「不定称」などといいます。

たとえば日本語の「わたし」は、一人称の代名詞です。

代名詞の文脈依存性

代名詞とは文字どおり「代わり」となる「名詞」です。ですから、代名詞で表される何ものかに代入される実体が具体的に何を指すかは、文脈ごとに違います。

たとえば同じ

(例文1)「わたしは寝ていた

というテキストでも、

  • ヤシロ某が述べたときの「わたし」と、
  • あなたが述べたときの「わたし」は、

きっと違う人物を指すはずです。

ここまではよいかと思います。

「自分」とは「わたし」以外でもある

これが「自○」の形になると、もう一段複雑になります。「自」で始まる名詞として、ここでは「自分」を代表にします。

次の2つの例文を比べてみましょう。

(例文2)「妻がわたしの布団で寝ていた」

質問です。
この「わたし」とは誰でしょうか? 妻は誰の布団で寝ていたのでしょうか?

答えはおそらく99%、わたし=書き手の布団でしょうね。

では、これはどうでしょう?

(例文3)「妻が自分の布団で寝ていた」

同じく質問です。
この「自分」とは誰でしょうか? 妻は誰の布団で寝ていたのでしょうか?

  • 妻の布団
  • わたし(書き手)の布団

きっと人によって、解釈はこの2つに分かれるはずです。

日本語の「自」は、同じ文面でも解釈が割れます。比喩をくり返すと、量子的なふるまいをするのです。

「反射」な代名詞としての「自」

日本語文法業界の標準だと、「自分」は「反射代名詞」に属するそうです。

コトバンク>「反射代名詞」精選版 日本国語大辞典の解説 から

自称、対称、他称の別に関係なく(略)動作が動作主自身にかえることを表わす代名詞。反照代名詞。反射指示代名詞。反射。→再帰代名詞

ひょっこりはん、いや、井上ひさしもまた

動作主のする動作が、他へは及ばず、動作主自身に及ぶことを示している。作用はたらきはこれだけである。

出典:『私家版 日本語文法』「自分定めと縄張りづくり」

と、同様の説明をしています。

そうか「自」は反射なのか。でも「妻が自分の布団で寝ていた」という文章を「自分=わたし」と読めば、反射してないよな。

反射勢力は、その形態が多様であり、また、その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであることから、あらかじめ限定的、かつ、統一的に定義することは困難である、ってこと?

嫁に捧げた「自分」アンケート

などと、布団に寝っ転がって考えておりましたら、嫁が隣の布団から「なに考えてるの?」と聞いてきました。嫁いわく、自分は考えるとき独特の姿勢を取るのですぐにわかるそうです。

ならばとここまでの概略を説明して、いろいろな「自分」例文を一緒に作って考えてみました。

以下、嫁アンケート結果です。

「自分」って、誰のこと?

【問題】次の各例文の「自分」って、誰のこと?

夫が自分の茶碗でご飯を食べた。

あたし。ちょっとやめてよ。

夫は自分の茶碗でご飯を食べた。

うーん、どっちもあるな。半々。

夫は自分の茶碗でご飯を食べない。

あー、完全に夫。

n=1ながら、めちゃめちゃ興味深い結果となりました。

「自分」が誰を指すのかは、前後の語句のごくわずかな違いによって変化するのです。驚きです。

「自○」解釈を募ってみた

そこに気づいて、次の例文の「自○」をどう解釈するか、Twitterで募ってみました。

私は、幅広く募っているという認識でございまして、募集しているという認識ではなかったのであります。(発言する者あり)

ウソ。どっちでもいい。

大ざっぱな調査ですからこの比率は参考程度でしょう。大事なのは、「解釈が分かれる」というその事実です。

パート1まとめ:日本語の「自」のグラデーション

「自○」という語句の人称性には、次の2地点を両極とした一次元上の濃淡があることがわかりました。

  • 単体では誰のことでもなく、前後の語句によって誰を指すかが定まる。
    いわば間接的な「自」
  • 一人称を指す。
    いわば直接的な「自」

前者を「無人称」の0と置くと、その人称性の強さは、0から1までの数直線上に、語句によって、また同じ語句でも受け取る人によって、さまざまにプロットされます。

たとえば私の場合で言えば、

  • 「自粛」には一人称性を強く感じるので、「自粛を要請」というつながりは、たいへん気持ち悪いです。
  • 一方で、「自習」には一人称性をさほど感じないので、小中高と「自習の指示」に従って自習の時間を過ごした経験に、何の違和感もなかったです。実際、一人称の「自習」の記憶は大学生以降のことです。

ですから「自粛」を直接一人称として感じることも、いったん無人称的に感じたうえで、前後の文脈から間接的に一人称として適用することも、どちらも方法として間違ってはいません。どちらも「自」に対する一般的な態度の範疇です。

両者の無用な対立を丸く収めたい気はさらさらありませんが、考えてゆくとこんな結論になったのでしかたありません。

【2020/04/28追記】自粛と自習の違いについて

「自粛」と「自習」について、Twitterで次のような指摘をいただきました。

英訳した場合、その「對象」がそれぞれ目的語と前置詞句となる点で、両者の構造が違うことがわかりました。このことが、当記事でいう「自」のグラデーションにどの程度影響を与えているかについて、もう少し検討を続けます。

次回予告

「自粛要請」をめぐるネット世間の混迷ぶりを読みとくには、まだ

  • 日本人の【自】意識
  • 介入である「要請」
  • しない表現である「粛」

についての検討が残っています。でもパート1だけでもいいかげんくたびれたので、いったんここまでにして記事を分けます。

次回へつづく。予定

みんなー、またね~

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