間違った文章が世界を幸せに(そして校正が不幸に)する7つの理由

間違いは故郷(ふるさと)だ。

―ぺこぱ・松陰寺太勇, M-1グランプリ2019(2019/12/22 OA)より

要約:Executive Summary

間違った文章は世界を幸せにします。

その理由は少なく見積もっても7つありますが、その最大の理由は、間違っているからです。間違っていることそれ自体が理由です。

小泉進次郞さんみたいな言いぐさがうさん臭いですが、本当のことです。

私の「間違い」論

突然ですが、私が「間違い」と断言できる何かは、次の2つだけです。

  1. 事実に反する言明
  2. 間違っていない物事を「間違い」と指摘すること

これだけです。

論理的には後者も「事実に反する言明」に含まれるので、めいっぱい絞ればたった1つです。

ほかのこの世あの世のすべては、そんなわけねーだろ、とは言い切れません。

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次の例で説明します。

とは言い切れない「6月31日」

たとえば私がいまここで「6月は31日まである」と述べたとします。事実に反する言明です。間違いです。6月は30日までです。

しかし6月が30日までなのは、いわゆる「グレゴリオ暦」という太陽暦の1つを暗黙の前提にしているからです。まったく別の世界観に基づく暦、たとえばラオスの一部で使われているティエム暦では、6月は31日まであります。

嘘です。いま思いつきででっち上げました。
悪くないだろう。

間違いが世界を幸せにする

「6月は31日まで」は、事実に反する言明です。間違いです。

では「6月が31日まであるカレンダーを世に出すこと」は間違いでしょうか?

私の間違い観に基づけば、間違っていません。

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「6月31日」という間違いによって、世界を幸せにしているからです。あなたもぜひ、こちらのツイートから世に満ちあふれ出たハピネスを見て聞いて体験してください。

間違いが世界を本当に幸せにする時代がもう来ている。

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makeameme.org より

悪くないだろう。

人を幸せにするには「間違いを書く」こと

間違いと断言できるのは、事実に関することだけ。

これが私の間違い観です。

またまた突然ですが、この私の間違い観の形成に絶大な影響を与えた1冊の本を紹介します。

塔島ひろみ『楽しい「つづり方」教室』(1994, 増補版2004)です。

どちらも大切に持っています。だから1冊とは言い切れない。

なかでも特に、

この不幸が蔓延している世の中で、いったいどのようにしたら文章が書き手を幸福にし、読み手を幸福にし、幸福が蔓延する世の中にすることができるのか、考えてみたいと思います。(p.8)

と展開されてゆく「序 そもそも文章とは」を、今なお何度も読み返しています。

私の間違い観のほとんどすべてがここから始まったと言えるほどの、座右の書です。だが実は本棚にある。それもいいだろう。

間違いを書く、ということ

さて、著者の塔島さんは、文章が人を世の中を幸せにする、その方法の1つとして

★間違いを書く (p.35)

を挙げています。初めて読んだとき、ここからの数ページの記述により、それまでの自分の稚拙な間違い観を180度ひっくり返されてしまいました。決して過言ではありません。引用つづき。

 頭の悪い人にもわかりやすいように、わざとレベルを落として書いたと思われる文章ほど、憎らしいものはありません。しかし、文を読んでいて頭がよいと思っていた人の間違い、偉そうな人の頭の悪さ、馬鹿そうな人の馬鹿さ加減を発見すると、喜び・怒り・優越感・幸福感を得ることができます。(pp.35-36)

ここはまあ、そのとおりです。

そこから塔島さんは校正の害悪を挙げ、「書き手以外の人間の校正を即刻止めよ!」と訴えます。この主張に、私は必ずしも全面賛成ではありません。数値化すると賛成8反対2ぐらいです。後ほど改めて触れます。

それはそれとして、続くくだりが素晴らしいのです。※下線は引用者

良い文章とは、正しい文章のことではないからです。そして間違いを書く、ということはわざと間違えることとは反対です。それは正直に書くということです。正直に書けば誰だって、とっても間違っているものだからです。(p.38)

この素晴らしさを嫁とも分かち合いたいと、ある晩ここらのくだりを読み聞かせたことがあります。朗読していると自分でもどうにも説明のしようのない感情に襲われ、気がつくとぼろぼろと涙を流していました。

 間違いを書く、ということは正直者や善人だけができること、とも違います。黒人は劣っているなーと思っている悪人は、「黒人は劣っているなー」と間違った考えを書くことによって、初めて悪人とわかります。そして読み手の正義感・怒り・優越感をくすぐって人の為になれるのです。(p.38)

人を幸せにしようという思い上がった気持ちで書かれた思い上がった文、ひねくれ者が書いたひねくれた文、村長さんが書いたつまらない文、自分の幸せのために書かれた自慢気な文、上手な文、下手な文、その何もかもが、書かれれば書かれるほどぼろが出、ぼろが出れば出るほど世の中は平和になります。(p.39)

間違った文章は「ぼろ」の出た文章であり、ぼろの出た文章は世界を幸せにし、そして世の中は平和になることがわかりました。

このぼろが、文学です。文章とはぼろのことです。(p.39)

「序」は次の文章で締めくくられます。

そして世の中が平和になり、不幸な人がいなくなったら、幸福な人もいなくなります。誰もいなくなり、本当の平和が訪れます。(p.40)

この世の真実を教えられました。

嫁は、「ノリツッコまないボケ」の間のシュウペイさんのような表情をしていました。

間違いを正して世界を不幸にする「校閲のジレンマ」

それでも校正・校閲は、世の中に必要な仕事だと私は思います。間違った文章は世界を幸せにしますが、文意が理解できなくなるほど間違いすぎた文章は、読み手の私を不幸にするからです。

けれども既に引用含めて述べたとおり、書き手の間違いを「校正・校閲」の名のもとに他人が正せば正すほど、その文章は偽りとなってしまいます。

このメカニズムを私は「校閲のジレンマ」と呼んでいます。

ところで、私が「校正」の存在を初めて知ったのは、小学生時分に読んだ芥川龍之介の小説「トロッコ」(1922)でした(リンクは青空文庫)。物語のラストで、主人公の少年が後年雑誌社でやっていたのが、校正でした。今でもサイゼリヤに行くとついやってしまいますが、当時から「間違いさがし」が大好きだった私は、世の中にそんな仕事があるのか!とときめいたのを覚えています。

そんなときめきも長くは続かず、校正・校閲とは縁遠い職に就きました。就かなくて本当によかったです。そっちのルートのどこかで『楽しい「つづり方」教室』に出会っていたら、確実に病んでいたと思います。

いま一緒くたにしていますが、校正と校閲は厳密には違います。わかりやすい違いは、校正には対象とする原稿が2つ以上必要ですが、校閲は1つでも可能なところです。

Twitter世間にいくつかある新聞社・出版社の校閲部や校閲会社のアカウントのうち、「校閲のジレンマ」を自覚し、悩み煩うさまも垣間見える、毎日新聞 校閲センター(@mainichi_kotoba)の出すツイートは結構好きです。アカウントをフォローしてもいます。他に自覚がないとは言っていない。

こんな無駄話を無駄なまま書き置いておくのも、ひとつの心境に到ったゆえです。

まとめ:間違いと校正とツッコミ方改革

間違いは世界を豊かにします。

それが『楽しい「つづり方」教室』との出会い以来、折に触れて間違いについて考え続けてきた私の結論です。間違いを語らせれば人後に落ちない自負もあります。180度ひっくり返され続けるとひょっとして元に戻るのでは。そんな風に考えてもみた。

三たび突然ですが、2019年のM-1グランプリで最も私の印象に残ったのが、すべてを肯定し、松本人志さんによってそのスタイルを「ノリツッコまないボケ」と命名されたぺこぱの活躍でした。『楽しい「つづり方」教室』に培われた私の間違い観にようやく追いつく漫才を見ることができて、感慨深いものがありました。いや、追いつかなくてもよかった。

間違いが世界を幸せにする時代がもう来ている。

無駄話を承知で最後に付言しておくと、過去最高レベルとの世評も高かった大会で優勝したミルクボーイのネタも、従来型の漫才によくあるボケ(間違い)とツッコミ(校正)の対立構造ではなく、駒場さんのオカンが名前を忘れてしまった「好きな朝ご飯」「好きなお菓子」を一緒に考えるという、協力して問題解決にあたるタイプであったことは指摘しておいていいでしょう。

「7つの理由」とタイトルに書いたが実は7つも理由はない。語呂がよかっただけだ。

時を戻そう。

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diwashobo.co.jp より

おわり

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