日本人の10割が知らない標識語の世界―「沸騰化」への「射程距離」

日本語の語彙の中には、標識のついた言葉があります。

標識にあたる部分を「標識成分」、標識成分の付いた語を「標識語」といいます。

日本語を話す人の10割がこのことを知りません。いま、私が作ったからです。

その存在を誰ひとり知らなくとも、古今あまたの標識語が生まれ育ち、多くの人が自然に使いこなしています。

この記事では、そんな標識語の世界を取り上げます。

GotembaJunction

commons.wikimedia.org より 写真と本文は関係ありません

標識語の誕生

地球「沸騰化」か「沸騰」か

三省堂「今年の新語2023」が大賞に「地球沸騰化」を選出したころ、「沸騰“化”? “沸騰”だけでよくない?」的な議論が一部でありました。

あたりで議論は落ち着き、さほど沸騰しませんでした。

それはさておいて、同感です。「化」を付けない「地球沸騰」で十分。それもそうなんですが、どことなく無理のある、伊達の薄着のような主張です(ベクトル反対だけど)。温暖化(warming)の進化形との文脈をふまえれば、沸騰化がきれいです。

「化化」先行研究

なくてもよさげな「化」には既に次のような論考がありました。

もとの動名詞に含まれる変化 (inchoative) の成分を、「-化」という接辞で二重に標示する

出典:「化化」随感: 「種別性」を「明示化」したい話|Mitchara(2022/12/3付)

大筋で賛成します。「沸騰」を例にすると、そうでないものがそうなるのが「沸騰」であり、その性質を明示するのが「沸騰化」です。

論考はこちらのツイートから知りました。

ひとつだけなんくせ。ここで「透明」を使うのは、ワードチョイスとしてはいまいちです。「透明」は、見える/見えないの両方に使う言葉だからです。たとえば、透明な会計は見えるし、透明な存在は見えません。

そこで標識です。見えてほしい存在を表します。

反「標識語」的勢力、「射程距離」を難じる

世の中には、反標識語的勢力も存在します。校閲者です。

新聞の校閲をする人たちは、意味の重なる語が連なるのを嫌います。たとえば「射程距離」です。

事実関係を鑑みれば、主張はまったく正しいですよ。正しいんですけど、それって「かしこ」の理屈なんですよね。日本人の7割以上が偏差値60未満である事実をないがしろにしています。正しいですが、不誠実です。

射程の「程」は距離を意味します。だから射程距離です。なんと慈愛に満ちあふれた言葉でしょうか。

標識語にはムダがあります。「沸騰」でもいいけど「沸騰化」にする、といった具合に、なくても事足りる標識成分を足しているからです。ムダもある一方で、より多くの人に届きやすくなってもいます。インクルーシブな日本語です。

ムダを切り捨てる。それは正しい反面、貧しさの表れでもあります。「射程距離」のもつ慈愛を拒絶しなければならない校閲とは、悲しい仕事です。

外来語に顕著な「標識語狩り」

ですから「かしこ」の理屈を外来語にまで当てはめられると、なおのこと首を傾げざるをえません。

あたりを発端に、同アカウントからは再三同趣旨の発信がされてます。

事実関係に異存はありません。ですが結論には違和感マシマシです。その理屈、外来語にも適用させます?

日本語語彙において外来語は日本語として取り扱えばよいのであって、移入元の外国語でどんな意味を持つか、(知っててもいいけど)究極には眼中に入れなくてよいはずだからです。

もしも考慮すべきならば、フランス語で「大賞」の意味である「グランプリ」は、獲得はできても優勝できないはずですし、「イクラ」はロシア語で「魚の卵」の意味ですから、たらこスパも「イクラのパスタ」の仲間です。その理屈ならね。

Vが表す意味とダブっていることを理由に「RV車」「SUV車」を認めないのは、伊達の薄着に似た印象を受けます。半端にルーツをたどるしぐさが浅はかです。

「私たちは偏差値R60の日本語を使います」、その方針を取るのは自由です。同時にそれは、7割超を排除する理屈である自覚を持っておいてほしい気もします。

標識語の豊かな土壌―○Vを例に

ツイート検索しますと、アルファベット2文字の略語「○V」を含む標識語として「AVビデオ」「DV暴力」「EV車」の用例がすべて実在しました。「MVビデオ」「PVビデオ」は言わずもがなです。新聞や商業出版物のような痩せた土壌からは決して生育することのない、豊かな日本語です。

けれど不思議と「UV線」とか「UV光線」は見あたらなかったですね。

UVは英語のultravioletの略です。ネットで英文の用例を見てますと、ultraviolet単体で「紫外線」を指すこともありますが、「radiation」「light」「rays」といった語を後ろにつなげて組み合わせるパターンが多数派でした。ひょっとすると、これらは英語での標識成分なのかもしれません。

この差はなんなのか、研究を続けます。

余談です。このタイプの標識語でいま私のお気に入りは、「人工AI」と「BMI指数」です。ステキ

思想家には知られていた事象

「標識語」の用語こそ使っていませんが、当代きってのポストモダニズムの大家からは、既にこのテーマで発信がされていました。

しかしこの発信を次のレベルにまで読み解ける人は、ごく少数です。

標識語は、この水準の読解力を持ち合わせない人のためにある、とも言えそうです。

ポストモダニズムがなんなのかわからない層にも、標識成分を加えて「ポストモダニズム思想」と書いておけば、最低限それが思想の1つであることは伝わるはずです。

標識成分の意味論

続いて起こるのは次の疑問です。

標識成分の役割は「カテゴリーの明示」であり、その有無で意味の差は「ない」のでしょうか?

たとえば「沸騰化」と「沸騰」のあいだに、標識成分「化」の有無による意味の差はあるのでしょうか?ないのでしょうか?

現時点での答えは「基本的に、差はない」が「ないとも言い切れない」です。

どことなく、その差はこれから生まれてくる予感もします。

打順は「固定」か「固定化」か

「阪神タイガース2023年レギュラーシーズンのスタメン打順」を例に、それは「固定」か「固定化」かを選んでみました。

自身の語感だけが根拠です。「これが正解」を主張するものでないのでその点ご留意ください。

  • 全143試合、4番は大山に{固定|固定化}。
  • 1番近本(124試合)、2番中野(140試合)、8番木浪(122試合)もほぼ{固定|固定化}です。
  • シーズン後半になると、3番は森下に{固定|固定化}。
  • 打順の組み合わせは、12球団最小の69通り。唯一2桁の数字で、その{固定|固定化}ぶりは断トツです。アレとの相関も大いにありそうです。

どっちもありだけど「あえて選ぶならこっち」というのもあります。個人差も当然にあると思います。

「打順は固定されているもの」といった社会通念ないし社会的合意はたぶんないので、そこらも決定要因にからんでくるような気もいたします。

次のサイトのデータを参照しました。

分化の予兆を感じる「怪談話」

はっきり観測できたわけではないものの、標識成分の有無で意味の分化を感じるケースもありました。「怪談話」がそうです。「怪談話」は一般人のツイートから簡単に採集できる標識語です。

「怪談噺」なら、落語ないし寄席の演目的な意味あいで広辞苑と大辞林、精選版日本国語大辞典の見出し語になっていました。その噺ではなく、「話」表記の「怪談話」です。

校閲的視点では「怪談」で十分です。「怪談」とは「こわい話」なのですから。事実私の見る限り、各用例の「怪談話」を「怪談」に置き換えても差し支えなかったです。

「怪談話」の使い手の大半も、「怪談」が「こわい話」であることは知ってると思うのです。しかし思うに、「怪談」では何かもの足りない、そのもの足りなさゆえの「怪談話」ではありますまいか。さほど無理のない考え方に思えますが、どうでしょうか。

「怪談話」からは、単なる「怪談」にはない手ざわりも感じられます。その点で、どことなく後置冠詞のような趣もあります。「怪談」とのカテゴリー分化が起こり始めているのか否か、観測を続けます。

まとめ&次回予告

標識語の世界を紹介しました。

たとえ標識語がこの世から一切消え去ってしまっても、日常の用は足せます。足せますが、この種の用語用法が育つ方が、世界がより豊かとなるように思います。

次回は標識成分の有無による意味分化傾向がより明らかな標識語を取り上げます。それまで皆さんも、身のまわりにある標識語を探してみてくださいね。お楽しみに!

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