従来の「世代」の大きさと否応なさについて(今年の新語2022さきがけ)

けいおんは世代!(@Heydarlin56

このような、広義の消費コンテンツ〇〇について

〇〇は世代

とする語形を新語扱いしてよいかを検討しています。

新語なのかを検討するには、まず従来の「世代」がどんな性質を持つかを確認する必要があります。ということで

この記事に書くこと

  1. 従来の「世代」の性質
  2. そんな従来「世代」への「異議申し立て」2例

結論:Executive Summary

結論から述べます。

従来の「世代」の2大特徴は

  1. 大きい
  2. 大きいゆえに、否応ない

です。

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Generation Timeline(commons.wikimedia.org より)

特徴1:大きい

どの形態の「世代」であれ、「世代」とは集団を指す語です。

個々の発信者を基準に比較すると、必然的に大きい存在となります。

俗に「主語が大きい」という言い方があります。『三省堂国語辞典』第八版での追加項目の1つです。

すべてがそうだとは限らないのに、ひとまとめに論じられている状態だ。

とする解説文がそのまま当てはまる「世代」もまた、「大きい」ワードだと言えます。

なお、世代の「形態」については後ほどふれます。

特徴2:否応ない

これも大きさ・デカさゆえなんでしょうけれど、「世代」のもうひとつの特徴は否応ないことです。

「世代」をつくる個々の成員それぞれが持っているはずの事情なり特質なりは、軽視ないし無視される傾向が強くあります。

その否応なさは、「世代」を考えるときに念頭に置くべき特徴だと言えましょう。こちらも詳しくは後ほど。

既存「世代」の4形態

既存の「世代」は次の4つに分類できます。手元でアクセスできる辞書から用例のみピックアップしますと

  1. 人口学的:息子の世代(デジタル大辞泉)
  2. 生物学的:一世代限りの種子(三省堂国語辞典 第八版)
  3. 社会学的:戦後世代(広辞苑 第七版)
  4. 工学的:第二世代コードレス電話(デジタル大辞泉)

という具合です。せっかくなので末尾を「~~学的」にそろえてみました。命名も順序づけもさほど厳格ではなく「日曜日の初耳学」レベルのカジュアルなものとご理解ください。

それでも社会学的世代を3番目に置いたのには根拠があって、その嚆矢とされるカール・マンハイム(1893-1947)のエッセイ「Das Problem der Generationen」(1928)に、人口学的世代・生物学的世代の両方が出てくるみたいだからです。

今回はもっぱら「第3形態」とした社会学的世代が検討対象となる感触です。

「学際的」な世代の例も

中には複数の形態に当てはまる「学際的」な世代もありました。たとえばこんな世代です。

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江面弘也『競馬ノンフィクション 1998年世代』(2022)

生物学的な意味もありつつ、サラブレッドの生物学的世代よりも短い1年スパンで区切っている点で社会学的要素もあります。

ほかには「お笑い第七世代」なんてのも、第1第2第3各形態の要素をあわせ持った用法だと言えそうです。

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コスミックムック「芸人芸人芸人」(2019)

といった具合に、クールポコ。(第なに世代?)ばりに「世の中にはどんな世代がいるんだ?」と、4つ(もしくはそれ以上)に仕分けてみるのも一興ですよ。少なくとも私は楽しかったです。

「子育て世代」に世代の「否応なさ」を感じた話

さて、「世代」の否応なさです。

「否応なさ」は、Twitterの投票機能を使ってアンケートを取った結果から発見した特徴です。

ひと言で言えば、なんとも絶妙な結果となりました。私自身は各選択肢がもっと拮抗すると予想していましたので。

否応ないですね。

私自身の答えは、「場合による」でした。楽屋裏を明かしますと、当初「入る」「入らない」の2択の設問にしていたところに、第3の選択肢として推敲段階で足したのでした。

大まかに言語化するなら、次のような思考プロセスを経ての追加です。


自身は当初「入らない」と回答したかったのです。けれども、どこか割り切れないものがありました。

まず、これまで私が「子育て世代」を自称したことはありません。なぜなら夫婦ともども子育てしていないからです。「子育て世代」なる虚偽の自称をするメリットも特に見いだせておりませんでした。

それでも同時に、子育てしていない私ないし夫婦が「子育て世代」と見られたり扱われたりする事態はあり得るし、記憶がないだけで実際あっただろうな。そうも思えました。こういったケースでは「入る」ですよね。

そのとき、私をひっくるめて「子育て世代」と称している側からは、ヤシロ某という個別の人間を見ていない、見えていないことは間違いがありません。

けれどもふり返ってみると、そこに毎度毎度異議を申し立てたり違和感を表明したりするわけでもありませんでした。黙ってやり過ごしてきたのが正直なところです。エネルギーの遣いどころが違う気もしました。そう見えるんならそれでいいですと諦めてしまっていたのかもしれません。

どうやらこれは、例示した「子育て世代」に限った話でもなくて、「世代」の語が持つ構造的特質ではなかろうか。そんな気が強くしてきました。

なんか、否応ないなー。

世代の特徴とした「否応なさ」は、そんな感想がルーツです。

「世代」語りの粗雑さ

この記事では、従来の「世代」のワードとしての大きさ、大きさゆえの否応なさの2つを確認しました。

その論理的な帰結としては

  • 世間の「世代」語りは、それがどんなに精緻に見えても、必ず粗雑さをあわせ持っている。

となります。

粗雑さを隠そうともしない質の低い世代論もありがちです。

従来「世代」への「異議申し立て」2例

あとは、知っていることをひけらかしたいマンスプレイニングタイムです。

従来「世代」への「異議申し立て」を2例紹介します。筆者はそれぞれ

  1. 後藤和智さん(b.1984)
  2. 池田晶子(1960-2007)

です。

やってないのに「子育て世代」扱いされる自身のモヤモヤをやり過ごしてきた怠慢を正当化するならば、世代一般に対してだったら既にdisってる人いるし、そのdisに私が特に付け加えることもないなという話でもあります。

後藤和智さん(b.1984)の場合

後藤和智さんのことは、著書『おまえが若者を語るな!』(2008)で知りました。

2022年現在の動向を確認しますと、Twitter上で著書とも一貫したスタンスで「世代」、とりわけ若者論を話題にされていました。私としては、賛成できたりできなかったりしました。

ここでは2つサンプリングします。

賛成です。

付言しますと、文意からすれば正しくは「上の世代が下の世代を」でしょうけれども、それはそれとしまして。

引用元のツイートは

  • 強めに言えば、差別発言ですし
  • 控えめに言っても、陰口です。
  • あるいはもし、不特定ないしは実在しない対象をでっち上げての悪口なら、ストローマン論法そのものです

どれであっても、良識ある人間なら公にしないはずの言説です。加えて、相対的な弱者層に向かっている点でも悪質です。

一方こちらは、全面的には賛成しかねます。

「一緒にしないでくださいよ」が第一の反論です。実際の私はここで取りざたされているどの方とも同世代とは言いがたい年齢差がありますが、仮に同世代である場合も同じです。社会の一員であるはずの私ですが、「奴らに正当性を与え」た覚えはありませんので。

「世代」論の粗雑っぷりを批判してきたはずが、主語としての「世代」のデカさ自体に足をすくわれているようにも見えます。

私の感想をそこそこ的確に言い表せている返信もありました。

池田晶子(1960-2007)の場合

そういえば池田晶子がどこかで世代論をdisってたなと思い出しました。

  • 〈同世代の皆さん〉―『メタフィジカル・パンチ』(1996)所収
  • 〈「世代論」の腹立たしさ〉―『考える日々Ⅱ』(1999)所収

の2編がそれです。まだあったかもしれませんが、四半世紀ばかりの時を経て再訪できたものとしてはこの2つ。記憶の片隅に残っていたレベルには、現在の私に影響を与えていると言っていいでしょう。

当記事のため、20数年ぶりにひもときました。かいつまんで紹介します。

なお引用のページ数は単行本刊行当時のものです。現在はどちらも編集が変わって再刊されていますが、そちらは未確認です。添付の書影は再刊のものです。

『メタフィジカル・パンチ』〈同世代の皆さん〉

池田は世代論を「人間を語る仕方として非常に安直」とし、こう述べています。

 幼児期に見たアニメ漫画、
「知ってる?」
「知ってるゥー!」
人々、手を取り合って喜ぶ。
知ってはいるがそれがどうした
私は感じる。何らかの体験を共有するということが、共感を覚えることになる理由がない。(p.82)

読んだ当時、だわね、と思ったのも思い出しました。

ただ私も年齢を重ねて、こういう場面での人々の「喜ぶ」の何割かは「喜んでみせている」すなわち「喜んでいるふり」であることもわかってきました。それが無難かつ無害と多くの人々に思われているリアクションだからです。

 人が生きるに寄る辺ないのは当たり前だ。そんなことは今に始まったことではない。(略)それは有史以来、それ以前のことではないか。そのような壮大な普遍性を目指すためではなく、十年刻みの世代論などで特異性のみ強調したがる言論とは、そも何を欲しての言論なのか、私には納得しかねる。(p.83)

どうもたんに同年代であるということにすぎないようだから、それならば私は言う。私は、違う。私は自分を同年代の誰に似ているとも思わない。思う必要もない。私の孤独は、互いに確かめ合わなければならぬような空疎なものではない。それは宇宙大にまで充溢した虚無なのだ。なんで今さらこの世の何かに寄る辺なんぞを求めるはずがあるか、求められるはずがあるか。(p.84)

 生死という絶対的形式において人は、個人も時代も超出し得る、これが我らの普遍である。(p.86)

いま風な言い回しを使うと、デカ主語「世代」を上回るクソデカ主語「生死」「普遍」を持ち出してマウントを取るスタイル、とも言えます。

人は生きる限り己れの時代を生きるよりほかはない。しかし、想い出として語られるとき、ただ生きられていたそのことが忘れられる、それが我らを繰り返し誤たせるのだ。(p.87)

的を射た指摘だと思える反面、このスタイルでマウントを取られると、「世代」の否応なさなど全然ぬるいと、一種理不尽なことも言えてしまいます。変なたとえですが、川で水死するより海で水死する方が水量の点で上、みたいな。死に至るメカニズムは共通でしょうに。

『考える日々Ⅱ』〈「世代論」の腹立たしさ〉

前述の〈同世代の皆さん〉と同工ではあるのですが、テキストの完成度としてなら私はこちらに軍配を上げます。もはや「世代論disの金字塔」と言っていいぐらいです。

私は、この「○○世代」という人間の括り方を、深く軽蔑しているのである。
他人が名指すのは勝手である。しかし、自らそう名のる感覚が理解できない。(p.27)

と、トータルの文体が平易になってきたぶん、そのキレも増しています。

世代はどうあれ、あなたはどうなのか。私は常に、そう問いたい。(p.28)

他人はどうあれ、私は私ではないか。そのことが、「私である」というそのことではないか。すると、「私は○○世代である」という発言の主語は誰なのか、それが納得できないのである。(p.29)

まさしく。私以外私じゃないの。だからマイナンバーカード

私と同世代の評論家が、「われらオウム世代」と自ら名のっているのを見かけたときには、さすがに情けなかった。よしてよ、私は違うわよ。(p.29)

「ボクらは淋しい世代なのである」
淋しいのはアンタのオツムの中身じゃないの。(p.29)

いいですねこのたたみかけるリリック。

 無責任である。発言する人は、自分の責任において発言するべきであり、世代もしくは性別もしくは民族等において発言するべきではない。いや正確には、そのようなことは不可能であることをこそ、まず認識するべきである。(p.30)

ただ私も年齢を重ねて、かかる無責任は池田言うところの人が生きることの「寄る辺なさ」への処し方でもあるんだろうな、とも思えるようになってきました。人が生きる寄る辺なさを知らない、恐れている、直視することの負荷が高すぎるなど、タイプはいろいろでしょうけれど。

まとまりもなくなってきたので、ここまで。


本題であった

広義の消費コンテンツ〇〇について「〇〇は世代」とする語形を新語扱いしてよいか

は次の記事に書きます。結論だけ書いておくと「よい」です。

つづく

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