ゴリラ化した嫁のおかげで知った、ゴリラの素敵な生態

こんにちは。

少しだけゴリラに詳しくなりましたので、ナビやコーヒーやガラスからは決して伝わらない、ゴリラの生態について書きます。

要約:Executive Summary

  1. 嫁がゴリラ化しました。
  2. 嫁のゴリラ化をきっかけに、ゴリラに関する本を読みました。
  3. 本で読んだゴリラの社会は素晴らしいものでした。ゴリラに生まれた方が合っていたなと思いました。

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1.嫁がゴリラ化した件

嫁と結婚して12年目に入りました。

当たりまえですが、新婚時代と比べれば、嫁も私も老けました。

変わらないこと 変わったこと

当たりまえですが、結婚してからの年齢差は変わりません。また、結婚時点で互いにそこそこのおっさんおばさんでしたから、身長差も変わっていません。

けれども結婚当初25kgはあったと思う体重差だけが、今では5kg以下になりました。最小値は2kgです。

詳細は申しませんが、近ごろの嫁を、嫁の妹は「ゴリラみたいだな」と言ったらしいということだけ述べておきます。

頭髪のはげ方にも個性があるように、嫁の場合はゴリラタイプでした。

2.ゴリラ本を読んだ

嫁がゴリラ化したことで俄然ゴリラに興味がわいて「ゴリラ研究と言えばこの人」の近著を読みました。こちらです。

一般向けに、霊長類研究の歴史、ゴリラ研究史、自身のフィールドワークにおけるゴリラとの交流など、山極さんの話をライター&編集さんが上手にまとめた仕上がりになっています。

読みやすく、ゴリラブームの来た自分には面白い一冊でした。

タイトルの「サル化」に行きすぎ感

ただし書名の「サル化」は話が先に行きすぎていて、未読の一般人にはアピールできていないように思いました。

サルとゴリラの社会が全く違っていることなど、きっと95%以上の一般人は知らないでしょう。どちらも「似たようなもの」と思っているはずです。

実際、本書を読むまで私も知りませんでした。

山極さんは人間社会の「サル化」を懸念しているのですが、未読の状態で「サル化」とはどういうことか説明できる人はほとんどいないように思われます。

3.ゴリラ社会にあこがれて

同書を読んだ私の理解では、次のとおりです。

  • サルの社会:「優劣」「序列」のはっきりしている、支配・被支配的社会
  • ゴリラの社会:「上下」「勝ち負け」の概念のない、協力する社会

文中に感動的なゴリラエピソードはいくつもあるのですが、観察者の山極さんをゴリラの群れが「受け容れる」くだりや、あるいは、どちらにも味方せずにただ「間に入る」だけという、ゴリラの喧嘩の仲裁のくだりを読むと、ヒトは完全にゴリラに負けているなあと思うのでした。

いやはや「負けてる」という発想自体が、ゴリラが到達している域に及んでいない証左です。

魅力1:目と目で通じ合う

ゴリラは顔と顔、目と目でコミュニケーションを取ります。

本の現物は別居中の嫁の元に置いてきましたので、山極さんが同様の話をされているWeb記事から引用します。

一般的にサルの社会では、相手の顔を見つめる行為は威嚇であり、強いサルの特権だといわれています。

そんなふうに思っていたので、ゴリラの観察を始めた当初も、なるべく目を合わさないように、下を向いていました。しかし、逆にゴリラの方から、私の顔を何度も覗き込みに来るんです。一体これはなぜだろう?と、初めはとても不思議に思いましたよ(笑)。

相手の顔を見る行為は、ゴリラにとって強烈な意思表示になります。視線にはいろいろな意味が込められていて、言葉はなくても、対面姿勢をとることで、コミュニケーションをとっているのです。

出典:ゴリラの社会には人間の社会構造の根底を探るヒントがあります|athome こだわりアカデミー(2004/04)

かつて工藤静香さんが

目と目で通じ合う
そうゆう仲になりたいわ

《MUGO・ん…色っぽい》(詞:中島みゆき, 1988)

と歌って憧れていた「そうゆう仲」が、ゴリラの社会でとっくに実現されていました。

魅力2:弱い者が仲裁するゴリラの喧嘩

ゴリラの喧嘩の終わり方は、恐ろしく平和的です。

立場の強い者同士が喧嘩していると、弱い立場の者が仲裁に入り両者の顔を見つめます。すると、争いが止むのです。仲直りさせるのは、弱い者の役割なのです。

両者のメンツが守られる仲直りの仕方を、ゴリラが心得ているからです。

強い者が仲裁すると、強制的な終結となり、両者の心には不満が残ります。しかし、弱い者が間に入ると「仕方がない」と、自発的な和解ができるのです。これも他のサルにはない行動です。

出典:ゴリラの社会には人間の社会構造の根底を探るヒントがあります

かつて、

Ours is not a drive for power, but purely a non-violent fight for India’s independence.

【拙訳】
私たちの運動は権力を得るためではなく、インドの独立のための、とことん非暴力に徹した闘いなのです。

In the democracy which I have envisaged, a democracy established by non-violence, there will be equal freedom for all.

【拙訳】
私の描いてきた、非暴力により確立された民主主義では、すべての人に平等な自由があるのです。

出典:Quit India speech(1942)from en.wikipedia.org

と「非暴力・不服従」を唱えたガンジーの運動が目指していた先は、既にゴリラ界で実現されていたのでした。

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ゴリラ社会の描写について、どれもベースは著者の山極さんの話ですから、人間界のどこかに異論もあるやもしれませんが、目下のところは、概ね山極さんが述べておられるとおりなのだろうなという心証でございます。

まとめ

ヒトというのは、サルとゴリラ両方の習性をあわせ持つハイブリッド種であるようです。

すなわち、個体間また集団間での「競争」と「協力」がヒトの生態の本質であります。

そこを踏まえて当今の人の世を眺めてみますと、勝ち負け・優劣・序列の大好きな「サル」的人種が幅をきかせているように感じられます。

そんな「サル」性優位な人間社会のかたわらで、ガンジーや工藤静香が目指していた世界は、ゴリラの社会でとっくに実現されていました。

競争を忌避するということではなく、無用に闘争的なところは改めて、もう少しゴリラ側に寄せていってもいいのではないかと、嫁のゴリラ化と、やけに闘争的に見える歌番組での工藤さんをきっかけに思うのでした。

現場からは以上です。

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