日本語警察が「さらなるは誤用」とかいう珍説を「超」丁寧に供養しました

なわけない

要約すればこの5文字で済む話を、5500倍以上に引き伸ばして語ります。

供養レベル1からレベル5まで5段階の供養プランを取りそろえました。好きなところまでお楽しみください。

  1. イントロダクション
  2. この記事で言いたいこと
  3. 供養レベル1:「さらなる誤用説」の迷妄
    1. 反論1:無理のある主張―先行研究より
    2. 反論2:「さらなる」新旧共存の20世紀
    3. 反論以前の「全共闘用語」説
    4. ここがいちばんダメ
  4. 供養レベル2:「さらなる誤用説」徹底レビュー
    1. 「さらなる誤用説」の成立――「野口以前」
    2. さらなるが誤りである理由を細かく読む
    3. 「野口以後」のさらなる誤用説たち
    4. 誤用説発信者の興味深い共通点:「大学教員」
    5. 付記:全共闘の更なる
    6. 異議なしからの反問:なんで「さらなり」が「いうまでもない」なの?
  5. 供養レベル3:「さらなり」が「言うまでもない」になるしくみ
    1. ヒント:「言うもさらなる」Yes/Noクイズ
    2. 答え:ネタがかぶってるから
    3. 先行研究の課題
    4. 間違いが妄言へと進化した(野口2023)
  6. 供養レベル4:日本語の[さら]とはどういう概念か
    1. 日本語[さら]の概念図
    2. テストデータとしての\平成歌謡祭/
    3. 更に(さらに)
    4. 更更(さらさら)
    5. 今更(いまさら)
    6. 猶更・尚更(なおさら)
    7. 殊更(ことさら)
    8. ざら
    9. 新・更(さら)
    10. 更(さら)
    11. 飯間浩明さんのツイートへのいちゃもん
  7. 供養レベル5:野口悠紀雄さんの「平成サウダージ」
    1. 「ランダム」ではなかった半角スペース
    2. 聞こえてきた「寂しい」
    3. 自力でたどり着いた「ひとり回想法」
    4. 本当に必要だったのは「半歩下がった同行者」
    5. 編集者たちが生んだ「合成の誤謬」
    6. 2024年の『「超」回想法』待望論
  8. まとめ:有謬の者共
  9. 文献リスト
    1. さらなる誤用説の系譜
    2. プレイリスト・平成を彩ったフレーズ集

イントロダクション

実は……普通に暮らしている一般の人々が冤罪の犠牲になっていることが少なくありません。

イノセンス 冤罪弁護士|日本テレビ からまるパクリしました。

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イノセンス 冤罪弁護士(2019)

この記事では「さらなる」に無実の罪を着せる次のテキストを取り上げ、ていねていね丁寧にレビューします。

小言幸兵衛の日記:国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない|野口悠紀雄
今日は、平成最後の大晦日の日になる。 残念なことに、平成の30年間は、日本が衰退を続けた時代だった。 そして、日本人の言語感覚が麻痺し、低下した時代でもあった。 この時代に登場した誤った日本語は多々ある。それらのうちで最も気になるのは、「さ...

小言幸兵衛の日記:国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない|野口悠紀雄note(2018/12/31付)

以下、こちらを(野口2018)と表記します。

(野口2018)の「さらなる」に対する主張は、次の3点に集約できます。

  1. 誤用である
  2. 突然変異的に発生した
  3. 全共闘用語

日本語警察の私からのアンサーです

  1. 誤用である
    →無理のある主張です。端的に、間違ってます
  2. 突然変異的に発生した
    →視野が狭いと、そう見えるんですね
  3. 全共闘用語
    →まずは立証してくださいませんか

順を追って丁寧に検証してまいります。

レビュー対象に(野口2018)を選んだのは、クリック1つで参照できるアクセスの良さが最大の理由ではありますが、

  1. 令和の当世に「さらなる誤用説」を唱えているのは、実質的に野口悠紀雄さん1人であること
  2. 説がとっても間違っていること
  3. とっても間違っている点も込みで、とってもいい文章であること
  4. とりわけ、平成最後の大みそか付で野口さんがこれをアップした事実が、とってもエモいこと

これらもまた選定理由に挙げることができます。

野口悠紀雄さんといえば、「さらなる誤用説」の旗手であり、第一人者とするにふさわしい存在なのです。野口さん以前に「さらなる誤用説」は世に出ておらず、野口さんの後に野口さんを上回る「さらなる誤用説」もないのですから。詳しくは供養レベル2で紹介します。

上述のnoteと、多数の著書の一部から確認できただけでも、

  • これは誤用(野口1998)
  • これは誤用(野口2002)
  • 「さらなる」という日本語は誤り(野口2013)
  • 誤用である(野口2018)
  • 誤用です(野口2020)
  • この表現は誤り(野口2023)

と、1998年から少なくとも6度、足かけ四半世紀以上にわたって「さらなるは誤用」と発信されています。こちらは別の記事にまとめました。

野口悠紀雄さんの「さらなる」敵視リスト【確認分】
この記事では、野口さんの著書その他から「さらなる」について確認できた記述を紹介します。 『「超」整理法』(1993)の教えに従って、時系列の順に並べてゆきましょう。読んでませんけどね!

「まだ他にもあるよ」の情報をもしお持ちでしたら、お寄せいただきたいぐらいです。

でもぜんぶ、間違ってるんですけどね!

前掲の(野口2018)からです。

「さらなる発展のために」 という用法は誤用である。

なわけない

だから、日本語から追放する必要がある

なわけない

少なくと も公的な文書での使用は禁止すべきだ。

なわけない

そしたらきっと 更なる一歩(石原2020)

“さら”であるから「さらなる」ですよ。何が不服なんですかね。

野口さんによるこの思い込みがどのように生まれ、より強固なものとなっていったか。そしてそのことは何を意味するのか。それらも追いかけてゆきます。

この記事で言いたいこと

2つあります。

1つめ。

もし、あなたの「さらなる」を誰かに「誤用」といわれても、全然大丈夫。

安心してください。合ってます。

「誤用に見えるさらなる」です。全裸に見えるポーズみたいに言ってみました。

断言できます。「さらなる」は一点の曇りもない、正統派の日本語です。異端視されたあげく誤用扱いを受けるいわれなどびた一文ありません。冤罪もいいところです。

2つめ。

とにかく明るい日本語警察からのクソバイスです。

それでも、あなたの「さらなる」を「誤用」といわれて「なわけない」と即座に否定するのは、どちらかと言えばダメな対応です。

くり返します。「さらなる」は一点の曇りもない正統派の日本語です。であっても、誤用説に対して「なわけない」と言下に否定することはおすすめしかねます。

愉快な笑みでも向けて、受け止めてあげましょう。相手が野口さんのような年長者ならば、なおさらです。

野口さんでなくても、ネットでのやり取りのように自分との年齢差がわからないならば同様です。逆に、「さらなる誤用説」を唱えているのが同年代や自分より若い方だった場合の対応は、おまかせします。

それはなぜか。

簡単に言えば、「さらなる誤用説」にどう向き合うかは、もはや学問の手続きで扱う範疇を超えてしまっている問題だからです。詳細は上級者向けの供養レベル5で述べます。

というわけで、長い前置きと本題の要約でした。

供養レベル1:「さらなる誤用説」の迷妄

めい‐もう ……【迷妄・冥妄】

物の道理にくらく、考えがまちがっていること。

出典:精選版 日本国語大辞典 迷妄・冥妄(めいもう)|コトバンク

再掲しますと、とにかく暗い野口さんの「さらなる」に対する主張は、次の3点に集約できます。

  1. 誤用である
  2. 突然変異的に発生した
  3. 全共闘用語

反論1:無理のある主張―先行研究より

(野口2018)はこういいます。

「さらなる発展のために」 という用法は誤用である。

本当でしょうか。

先日、「どうも無理っぽい」と、飯間浩明さんがきわめて穏便なトーンでツイートされていました。

自身では調査の及ばなかった「さらなる」文献を多数紹介してくださっており、ありがたいことです。

ともかくひとまずは、「100年以上前からあります」、そういう話です。

とはいえ飯間さんによるこのアプローチにも課題がありますので、後ほどふたたび取り上げます。

反論2:「さらなる」新旧共存の20世紀

(野口2018)はこういいます。

こ れは、突然変異的に発生した言葉である。

本当でしょうか。

飯間さんも利用されていた国立国会図書館の次世代デジタルライブラリーを見てみましょう。

結論から述べると、賛同しかねます。19世紀末から20世紀前半にかけての約半世紀が、新旧のさらなるが共存していた時期だと言えるからです。

さらなる「新時代」は明治30年

私の見つけた現代的な「さらなる」のうち、最も年代の古かった用例がこちらです。

斯る婦人が家政を務めんには幸福なる家庭に更なる特色を添ふべきは何人も承認する所なるべし

2023-07-06_08-24-41

出典:堀田達治『処世要道』(1897)pp.177-178

この用例に出会って、「新時代だ!」ってAdoさん as ウタの声が聞こえましたね。マジで。

1897年、和暦で言えば、明治30年です。

「さらなる」新時代は明治30年。ひとまずそう絞り込んでおきます。蛇足ながら、書いてることは現代の基準からするとめちゃくちゃ古いです。

早世した明治の旧「さらなる」使い

問題はこれが「突然変異的」なのか、です。結論から言えば、それも無理のある主張です。

同じ1897年、その前年に世を去った作家の全集が刊行されていました。『一葉全集』です。

この全集に出てくる「さらなる」は、すべて旧来の「さらなる」でした。最も年代の新しいものがこちら。

お尋ね申すは更なること手紙あげる事も成ませんかつた

2023-09-24_19-02-00

出典:樋口一葉「十三夜」(1895)『一葉全集』p.三九九

前半を現代語に訳すと「お尋ねするのはむろん、言うまでもなく」ぐらいでしょうか。旧来のさらなるです。

エモエモにエモいですね。というのも、私の樋口一葉像は

明治の世に生まれ、消えゆく「江戸」を描いた人

なので。新旧の入れ替わりが鮮やかです。

共存する1940年代

といっても、ここを境に一気に「さらなる」新時代に切り替わったと結論づけるのは早計です。

なぜなら半世紀近く後の1940年代の文献でも、新旧「さらなる」の両方が確認できるからです。

新しい「さらなる」が

故に今後も更なる飛躍下にあることは云ふ迄もないであらう。

出典:満洲経済臨時増刊『満洲企業の全面的検討』(1942)p.19

旧来の「さらなる」が

頓(とみ)に振興の運に向へるを喜ぶはいふも更なるを、

出典:『愛国婦人会山口県支部沿革誌』(1942)p.三一

という具合です。

殊に前者の例は、「更なる」につられて旧来の「云ふ迄もない」を想起したのかしらとすらも読めます。エモいですね。

次世代デジタルライブラリーをたどることで、19世紀末から1940年代までの少なくとも半世紀近くは、新旧の「さらなる」が共存していたことがわかりました。これが事実です。「突然変異的」とみるには無理があります。

「誤った意味に用いられた」(野口2018)が誤用説の主張なんでしょうが、それも迷妄です。なぜなら新用法の「さらなる」もまた、日本語の[さら]が実装する基底概念をまっとうに踏襲したものであるからです。誤用説はここの理解が欠けています。そちらは、供養レベル3から4にかけてじっくりと解き明かします。

反論以前の「全共闘用語」説

(野口2018)はこういいます。

私がこのことばを初めて聞いたのは、平成の初め頃のことである。なお、全共闘用語だったという説がある。
一見して文語 的表現と感じられるこの言葉は、実は、新顔なのである。

えっと、この文脈で「全共闘用語だったという説がある」が意味のある言明になるためには、次の2つを立証しておかなくてはいけません。

  1. 「全共闘」で実際に使われていたこと
  2. 「全共闘」以前に使われていた事例がないこと

時代を知らない人に簡単に説明しますと、「全共闘」は1960年代末に起こったムーブメントです。

後者の2.は、当記事のここまでの記述によって否定できます。「さらなる」は19世紀末からありましたね。ですので、「全共闘用語」は既に無意味な言明となっています。たとえ1.の意味で「全共闘用語」であったとて、「新顔」という結論にはならないからです。問題外です。

ところが野口悠紀雄さんときたら、足かけ20年以上、ただ書きっぱなしなんですよね。

再掲分含めて、

  • 全共闘のアジ演説でこの表現が生まれたとの説もある。(野口1998)
  • (全共闘用語だったという説がある)(野口2002)
  • なお、全共闘用語だったという説がある。(野口2018)
  • なお、全共闘用語だったという説があります。(野口2020)

ずっとこんな具合です。20年以上、まるでアイドルと付き合ってることをインスタグラムで匂わせたいアカウントのような態度のままです。ただ「説がある」とするだけで、その説の立証はおろか、真偽を検証する気も、その説を詳しく紹介する気すらも全然伝わってきません。停滞しまくってます。

平成の時代は日本経済の停滞期ととらえられており、「失われた30年」なんてもの言いもポピュラーです。だからといって、なにも野口さん自らが停滞を体現しなくてもよかろうに、と思ってしまいました。

ここがいちばんダメ

さらなるに無実の罪を着せる(野口2018)のうち、人として心底だめだなと思ったくだりです。

文章中にこの表現がでてくると 私はその文章の内容全体を信用しない。

なにそれ。

まるで、「前田敦子が嫌いだからAKB48も嫌い」と言ってるようなもんじゃないですか。

愚かです。

第3回総選挙のあの日、誰あろう当の前田さん本人からの発信によって、そのような態度が強く戒められた故事を、野口悠紀雄さんは知らないのでしょうか。知らないんでしょうね。

(野口2018)のような態度が幼稚で愚かであることを、前田さんの故事から私は学びました。ですから私は違う態度をとります。

「さらなる」を全共闘用語と称するのも無意味ですし、語誌をたどれば突然変異的とも私は言えないし、何より「誤用」がとんちきを極めた珍説そのものですが、(野口2018)の中には信用に足る証言も実際ありますから。

供養レベル2:「さらなる誤用説」徹底レビュー

曖昧なサインを見落として
途方のない間違い探し(Tsuneta2019)


供養レベル2では、

  1. 「さらなる誤用説」の成立史
  2. さらなる誤用説を唱える(野口2018)の詳細

の2つを、徹底レビューします。

「さらなる誤用説」の成立――「野口以前」

「さらなる誤用説」を野口悠紀雄さんが確立させたのは1998年のことです。それ以前に野口さん以外の人物が「さらなる」に関して言及した事例を集めてみました。といっても少数です。

調べのついた範囲で、「野口以前」に著作その他で「さらなる」に言及していたと確認・推定できる人物は、次のとおりです。

  • 丸谷才一(1925-2012)
  • 大岡信(1931-2017)
  • 飛田茂雄(1927-2002)
  • 菊田茂男(1929-2016)

全員が1920-30年代生まれで、いま存命であれば90代以上ですが、みな故人です。また、全員が男性で、発信時点での平均年齢がover60の中高年であることも共通しています。けれどもサンプルが少なくそこが特筆すべき事実であるかは不明です。

先に結論めいたことを書きますと、学生運動へのうっすらとした反感・嫌悪がさらなる誤用説の出発点と私はみています。知り得た「野口以前」のすべてのケースで「さらなる」が学生運動とセットだったからです。そしてそれを「誤用説」にまで育てあげた立役者が野口さんです。

『日本語相談 四』(1991)

飯間浩明さんのツイートから存在を知りました。週刊朝日での連載が書籍化されたものです。

巻末の「あとがきに代えて/回答者座談会」のなかに

大岡 投書で、どうもおかしい、なじめないという例として上がってくることばは一九六〇年代発祥のものが多い(p.251)

という流れから「さらなる」への言及があります。

丸谷 「さらなる」は「さらなる発展を願うものです」なんて使うんでしょう
大岡 これも一九六〇年代の後半から定着しましたね。(略)「さらなる進撃を」とやるわけです。学生運動と労働運動の中から生まれてきたものです。
(p.252)

連載での回答者が座談会のメンバーかつ同書にクレジットされた著者となっています。具体的には、丸谷と大岡に、大野晋(1919-2008)、井上ひさし(1934-2010)を加えた計4名です。さらなるに関して大野と井上の発言は特になく、スタンスは不明です。

飛田茂雄『翻訳の技法』(1997)

「問題集」というサイトの問題 13(日本語)の答えに同書への言及があって、図書館で見てきました。

巻末の「私の日本語表記」(pp.195-179)、「さらに」の項に

(△更に、「更なる」は私の辞書にはない言葉)
(p.187)

とあるのが確認できました。ページの記述どおりでした。

ページ筆者の方は、ここをさらに追究されていまして

「更なる」はなぜ飛田教授の辞書にないのかについて、飛田教授に直接手紙でお伺いしたところ、なんとご返事をいただくことができました。

のだそうです。

先生のお許しを得て、そのお手紙の一部を以下に引用させていただきます

以下、その《「更なる」に関する飛田教授ご自身によるコメント》から孫引きします。

私自身はきわめて単純に、「更なる」は60年代や70年代の若者(特に全共闘に属する大学生)が頻繁に―-あまりにも頻繁に--使っていた縮約語のひとつだと思います.

「更なる」などという大仰な疑似文語的表現は力みすぎていて、なにかのスロ-ガンには向いていても、美しい口語にはふさわしくない、と私には思えるのです。

読んだ心証としては、実際に手紙を交わしたように思えます。

飛田による実際の文面だとの前提で進めますと、飛田にしてみれば、読者に問われたので「こう思ってる」を率直に答えたのでしょう。「更なるが1960年代の若者発」は事実と異なりますが、どう思うかは自由です。飛田にとって「更なる」との接点はそこだったと受け取っておきます。

それはそうと、「全共闘」のワードが出てきましたね。

「全共闘用語」説のルーツの可能性

実は私、「全共闘用語という説」の実在を久しく疑っていたのです。それも野口悠紀雄さんの迷妄が生んだ幻じゃなかろうか?と。

ネット検索によって上記のページを見つけて、「全共闘用語」のルーツはそこかな?と思うようになりました。かつて野口さんもこのページを見つけて、こちらの内容を元ネタに「全共闘用語という説」を持ち出した可能性があります。次の事実があるからです。

  • Webページの追記の日付が「98年3月16日」であること
  • 野口さんが「全共闘用語」を最初に持ち出したのは(野口1998)であること
  • (野口1998)の元となった雑誌連載時点のテキスト(野口1997)には「全共闘用語」のくだりがないこと

もしネットで見かけたふわふわな風説だけがたより、だったのだとしたら、「全共闘用語という説」の深掘りはどだい無理筋です。

菊田茂男(1929-2016)の教え

このツイートの「私の先生」って誰だろうと調べてみると、菊田茂男という方でした。先ほどの飛田茂雄と名前が似ているのは、きっと偶然です。

菊田は平成5年(1993年)3月に「停年により東北大学教授を退官」しています([PDF]菊田茂男教授著作目録より)。ですからもし、ツイート主の学生時代に、証言どおりのことを菊田が言っていたとすれば、(野口1998)に先行する事例となります。

しかしながら、公刊されたものからその事実を確認できていません。前掲の著作目録に「さらなる」に言及していそうなタイトルは見あたりませんでしたし、それ以前に菊田の著作へのアクセス自体がとても難しいです。そこを乗り越える気力もない。

ともかく野口悠紀雄さんは菊田の影響は受けておらず、1996年から1998年にかけて自身で「さらなる誤用説」を育んだものと私は見ています。もし万が一影響を受けているのなら、そこに触れるのが筋でもありましょう。

以上が「野口以前」の誤用説成立前史でした。

さらなるが誤りである理由を細かく読む

ここからは、(野口2018)が訴える《◇さらなる」が誤りである理由》を細かくみていきます。

「丁寧に供養」の方針に則りこちらを執り行うことにいたしましたけれども、実のところこの段がなくても当記事の論旨は通じます。忙しい方は飛ばしてしまって差し支えありません。

しかもおかしなところはごくわずかでして、同意できるところの方がはるかに多いのです。それでも出される結論は180度正反対なのです。怖い話ですね。

最初に、いちばん間違っているところから挙げます。

(2-1)「さら(更)」は、「更地」とか「まっさら」という用法からわか るように、本来は「新しい」という意味である。

「さら」に「新しい」という意味があるのは事実です。

けれども「更地」とか「まっさら」という用法がある事実をもってそれを「本来」とするのは、論理が飛躍しています。そして九分九厘誤りです。

具体的に論証しますね。

「その意味・用法について、もっとも古いと思われるもの」(出典・用例について)でおなじみ、『精選版 日本国語大辞典』記載の出典・用例の年代をたどります。

こうなりました。

(野口2018)が「本来」だとする「新しい」という意味が、一連の[さら]ファミリーのうちで最も後発であることが読み取れます。

それを本来といわれましてもね。「なわけない」。

あとは先頭に戻って順に進めます。

「さらに」という言葉は副詞であり、

はい。そのとおりです。

これを「さら なる」と連体形で活用することはできない

そうですね。「さらに」は活用しません。データの世界で言う「イミュータブル」ってやつです。

でもこれを「さらなる」が誤りである理由に挙げる意味がわからないんですよね。

なぜなら、品詞分類上「さらなる」は連体詞だからです。連体詞は、副詞を活用させたものではありません。

この表現を使っている人は、「さらに」が形容動詞の連用形であり、そ の連体形として「さらなる」という表現があるものと思っているのだろう。

いいえ。思ってないです。

くり返します。「さらに」は副詞です。そして「さらなる」の品詞は形容動詞の連体形ではなく、連体詞です。そう思ってます。

ただし、形容動詞との関連にふれるレファレンスも実在します。《文語形容動詞「更(さら)」の連体形から》とするデジタル大辞泉がそうです(更なる(サラナル)とは? 意味や使い方)。

そこで「さらなる」を形容動詞「更なり」の連体形由来とするパターンで考え直してみました(実際、妥当な考え方だとも思います)。結果、まったく問題ありませんでした。

なぜなら「さらなる」もまた、「さらに」を含めた他の「さら」ファミリーと同じく、日本語が基底概念のデータセットとして持つ[さら]の仕様をしっかり踏襲しているからです。そういった意味を込めて冒頭で「正統派」と呼びました。

ちょっと何言ってるかわからないと思いますので、さらなる説明が必要ですね。レベル4の供養となりますので、そちらで説明します。

(野口2018)に沿ってレビューを続けます。

(1) 形容動詞とは、(後略)

争点ありません。

(2)もし、「さらに」が形容動詞の連用形であるとすれば、その終止形は、 「さらなり」となる。ところが、これは「いうまでもない」という意味な のである。

「さらなり」が「いうまでもない」という意味だというのは、そのとおりですね。

いったん続けます。

(2-2) 古語において、「いふもさらなり」、または「いえばさらなり」という表現があっ た。

はい。ありました。

これは、「そのようなことを言うのは、改めて新しいことを言うようで、おかしい」という意味である。

うーん、はい。間違ってはいません。

これがもし仮に、

「いふもさらなり」とはどういう意味か。32字以内で答えよ。

みたいな問題の答案だったら、点数は付きます。配点が低ければ、満点でいいです。

ではなぜこの文脈で、「改めて新しいことを言うよう」なまねが、おかしいことになるのか?って話なんですよね。

(野口2018)からは、そこをわかってるような感じが全然しないんですよね。

(2-3) これが簡略化されて、「さらなり」というだけで、「いうまでもな い」という意味になった。
枕草子の「夏は夜。月の頃はさらなり」は、 その例である(図の[古語2])。

「さらなり」は「いうまでもない」という意味。

高校生の時分に私もそう習いました。異議なしです。

その「異議なし」なところからヤシロちゃんが反問します。

と、その前に。

「野口以後」のさらなる誤用説たち

「さらなる誤用説」は、(野口1998)にてその基盤が確立されました。

「野口以後」の文献もまた、「野口以前」と同じく少数です。しかしどれも、野口悠紀雄さん発の一連の言説からの影響が色濃く感じられます。

橋本五郎監修・読売新聞新日本語企画班『新日本語の現場』(2003)

飯間浩明さんのツイートから知りました。新聞連載を書籍化したものです。

「さらなる」は【読者の反響から その1】のp.133に登場します。投稿主の「茨城・四十代男性」の投稿内容が、野口さんの主張そのまんまでした。むしろコンパクトにまとまっていて引用しやすいぐらいです。使わないけど。

時期的に(野口2002)の影響を受けていそうです。

矢橋昇『できる大人は知っている日本語雑学』(2013)

Yahoo!知恵袋の質問に書籍の内容をコピペして答えている人がいて知りました。珍しく出典付きコピペでした。新刊としては現在電子書籍でのみ入手できます。

6章にありました。ただし「誤用」とは主張してません。

「さらなる」と使って(引用者補:「さらに」と)同じ意味を表すことができるものかどうか、疑問が残るのです。

「更なり」は「さらに」とは違う意味の言葉のような気がするのです。

とソフトに疑問を呈する論調でした。

著者の矢橋昇さんは1935年生まれで、野口悠紀雄さん(b.1940)より年長ですが、公表時期としては後発です。(野口1998)などの影響を受けているかは不明ですけれども、疑問視する根拠に既存の誤用説を超える新しい視点はありません。

なお後で詳しく説明しますけれど、「更なり」は「さらに」とそんなに違っていません。

誤用説発信者の興味深い共通点:「大学教員」

「野口以前」「野口以後」の文献を紹介してきました。氏名の判明している各氏には、野口悠紀雄さんを含めて、中高年男性であることのほかにもう1つ共通点があります。

それは、6名全員に大学教員の経歴があることです。

ですから、「さらなる誤用説」の発生機序を超大ざっぱに書きますと

  1. 学生運動にうっすら反感を抱いてたところに
  2. 「さらなる」にふれて
  3. 「あいつら間違ってる」が「さらなる間違ってる」へ転移した

となります。ただし野口悠紀雄さんの場合は、2.から1.へさかのぼって、飛田茂雄が持ち出した「全共闘」に乗っかった格好です。

ちなみに当記事公開(2023年10月)時点においてTwitterで最後に確認されたさらなる誤用説寄りの論調もまた、2023年5月に(野口2018)のURLを支持的にリンクしていたツイートです。そのツイート主もまた、プロフィール情報のとおりなら大学教員でした。そして先掲の「私の先生」菊田茂男の教えをツイートしていた方もまた大学教員みたいです。

さらなる誤用説とは、まるで大学教員のみに感染するウイルスのようです。感染確率は極めて低いものの、時には教員同士で世代を超えて継承されることもあるもようです。実に面白い(←湯川学っぽく)。

私は当記事の冒頭で、相手が年長者なら愉快な笑みでも向けてさらなる誤用説を受け止めてあげてほしい、と述べました。しかしこれにはほぼ唯一の例外があります。それは大学教員から不当な扱いを受けた場合です。あなたが学生で、あなたの「さらなる」を理由に点数を下げられる、といったケースが想定できます。

そのときは、当記事で取り上げた諸事実を示して迷妄を教えてあげましょう。もしその教員が自身の迷妄を理解できないようであれば、その後の対応は任せます。私なら、学問の府に携わることが不適切な人と憐れみます。

付記:全共闘の更なる

先ほど「全共闘用語という説」に触れた際は、

  1. 「全共闘」で実際に使われていたこと

をほぼ自明のこととして流していました。いちおう、確認しておきます。

ネットを探してみると、その名もzenkyoutou.comというドメインにこんなビラ画像がありました。

20231015_54_1

出所:関大ファッショ体制に更なる追撃を!(社会学部ゼミナール協議会 1969.10) 関西大学商学部闘争委員会関係ビラ|続・全共闘白書

私が確認できたのはこの一例だけですが、「野口以前」の各証言からも、実際に使われていたとしてよさそうな感触はあります。

むろん、出所としたキャプションや、なんならサイト一式まるごとが、虚構の産物のフェイクである可能性もあります。けれどもそう仮定したとき、誰が何のために?のハテナがたくさん出てくるんで、サイト自体はまじめに作っているものというのがひとまずの心証です。

ドメイン名のzenkyoutou.comに、そこは.org(オルグ)とちゃうんかい、とツッコんだのもいい思い出です。

異議なしからの反問:なんで「さらなり」が「いうまでもない」なの?

話を戻しまして、CM前後のバラエティー番組のようにくり返します。

「さらなり」は「いうまでもない」という意味。

高校生の時分に私もそう習いました。異議なしです。

その「異議なし」なところから、ボーッと生きてるヤシロちゃんが問います。

でもなんで?

なんで、「さらなり」が「いうまでもない」という意味になるの?

考え始めたらけっこうな難問で、答えが出るまで6~7年かかりました。私はね。

供養レベル3:「さらなり」が「言うまでもない」になるしくみ

歳だけを重ねた
その向こう側に
待ち受けるのは
天国か地獄か(Tsuneta2019)


昔、ある漫才師は、地下鉄はどこから入れるのかを考えて、夜も眠れなくなりました。

かつて、日本語警察(私のことです)は、どうして「さらなり」が「言うまでもない」の意味になるのかを考え続けて、眠るまで眠れませんでした。そこがはっきりしたら、私も誤用説に賛成しようと思ったんです。

考え始めた頃はまだデパートの中にあった銀座線の渋谷駅が、考えているうちに東へ東へ移動しはじめ、百何十メートルばかり移った頃に、ようやく答えが出ました。

だから私みたいに6~7年とはいいません。皆さんにも6秒くらいは考えてほしいんですよね。

なんで、「さらなり」が「いうまでもない」という意味になるの?

ヒント:「言うもさらなる」Yes/Noクイズ

ヒントとしてクイズを出します。

次の一文は、「言うもさらなる」ことでしょうか? 解答はYes/Noの二択です。

世に一つとして簡単に片付く問題はない

正解は「Yes」です。難しかったですかね。

少し易しくします。これは「言うもさらなる」ことでしょうか?

選挙の日って
ウチじゃなぜか
投票行って外食するんだ

易しくなっているでしょうか。こちらも正解は「Yes」。言うもさらなることです。

答え:ネタがかぶってるから

では解答編です。

「さらなり」が「いうまでもない」という意味になるのは

ネタがかぶってるから~

さすがヤシロちゃん、ボーッと生きてる500歳なのにそんなことも知ってるなんて――
などと都合よく解説してくれる先生は用意しておりませんので、そのまま説明を続けます。

誤用説もご愛用の枕草子「夏は夜。月の頃はさらなり」で考えてみましょう。

夏の夜の風情を語るのに月を持ち出すのは、枕草子の時代ですら、さんざん既出だったんでしょうね。

あ!そうか。「同案多数」のところにまだかぶせていく、そこが「さら」なのか。

書いてみればたったこれだけのことです。そのあいだに渋谷駅も大きく変わりました。しかし同時に、その論理的な帰結から、日本語の基底概念[さら]の尻尾をつかめた手ごたえもありました。

ところが世の中は、そこを考えてみようともせず「さらなり=いうまでもない」で停滞してしまっています。

(野口2018)に戻ります。

「そのようなことを言うのは、改めて新しいことを言うようで、おかしい」という意味

かみ砕いて説明してみましょう。月の話を持ち出される方からすれば、さんざん既出なのにまた月かよ、となるわけです。だからなんで「改めて新しいことを言うよう」なまねがおかしいかというと、ぶっちゃけ「月の頃」の言いぐさが全然新しくないからですね。月こすられまくっとるがなと。ちょうど漫才コントで桃太郎をネタにしたり、ドラマネタで「101回目のプロポーズ」やってるのと同じようなもんです。それいつまでやる気やねんと。

(野口2018)がそこをわかっている気が全然しないと書いたのは、「さらなり=いうまでもない」の暗記で停滞したあげく

「さらなる発展」をあえて解釈すれば、「これまでのパターンとは違 う新しいタイプの発展」、あるいは「いうまでもないほど明らかな発展という意味でなければならない。

と、とんちきな珍解釈をくり広げる始末だからです。落語に出てくる殿様の「さんまは目黒に限る」に匹敵するとんちきさ加減です。

なわけない。

「言うもさらなり」Yes/Noクイズ解説編

先ほどの「言うもさらなり」クイズも解説しておきます。

1問目は、キングオブすべらない(小林1929)とネタがかぶっています。だから正解はYesです。テキストは「秀雄小林のすべらない話」第1集から取りました。

カットせずに書き出しから引くと、こうなります。

吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。

出典:「様々なる意匠」(1929)『小林秀雄全作品1』p.135

2問目は、(つんく2001)とネタがかぶってます。だからYesです。

ザ☆ピ〜ス!
モーニング娘。

まるで聖なる教典に従うがごとく、「選挙の日は投票行って外食する」は21世紀の民間信仰となりました。

誰かが言い出した何かが、もう既に他の誰かが言っているのと同じ「ネタかぶり」なら、それは「さら」です。

「さら」=「新しい」の図式が強く頭に刻まれている諸姉諸兄には、新しさゼロのネタかぶりがなんで「さら」なんだと、混乱するやもしれません。ネタかぶりの「さら」からどうやって新しい「さら」が生まれたのか。そこの理路は、供養レベル4で順を追って説明します。

先行研究の課題

先ほど、飯間浩明さんのツイートに対して、そのアプローチにも課題があると書きました。

「さらなるを誤った日本語とするのは無理」の結論にはまったく賛成です。

  • 遅くとも明治から使われてますよ
  • 作家のみんなも使ってますよ

どちらも事実ですし、ある言葉の普及・定着はソーシャルな要因が大きいことも確かです。

でもそれって結局のところ、「数の論理」なんですよね。

さらなるを誤りと妄信する歪んだ認知の持ち主に、「数の論理」は通用しないのです。課題はそこです。

実際、

  • 辞書も汚染され始めている(野口1998)
  • 辞書も汚染されてきた。(野口2002)
  • 辞書もすでに汚染されてしまった。(野口2018)
  • 辞書もすでに汚染されてしまいました。(野口2020)

と、「さらなる」が辞書に載ることを「汚染」と称するありさまです。

そんなもんだろう うんざりするよ(Tsuneta2019)

ですから私は、数に頼らない論理によって、「さらなる」が筋の通った日本語であると示すことにしました。使用者の多い少ないは関係ありません。たとえ使用者が1人であろうと成立します。

ほか、飯間さんのスレッドに対しては、「小異」に属することがらも2,3あります。

私の結論を要約すると次のとおりです。

  • 「平成に登場した」は妥当
  • 「さらなる」はむしろ変化していない方の日本語
  • その和歌を「さらに新しい恋」と解釈するのは勇み足

どれも細かすぎる異議なので、こちらも次のレベル4で触れます。

間違いが妄言へと進化した(野口2023)

「なわけない」の結論が出てからも、日本語警察(私のことです)はさらなる誤用説をいわば放置していました。説自体の知名度もないし、知っても大半の一般人はポカーンですし、オルグされるのは現・元大学教員の、ごくごくごく一部に限られてますから。

そしたら(野口2023)がとうとう

「さらなる」という言葉が「一層の」の意味で使われています。これは、1970年代に全学共闘会議のアジ演説の中に、突然変異的に出現した言葉です。

と、レベルEにエスカレートしてしまいました。当記事で紹介した諸事実に照らすと、明らかな妄言を語り始めてます。

この一文を目にした日の私は、あたまをかかえて 地下鉄乗り込む コールドフィンガーガールでした。まずは立証してくださいませんかと問い返すことすら、虚しい。

学問の手続きを放棄しています。というか、学問とは別次元の語りです。

野口悠紀雄さんの「さらなる」言説は

  • 「学問」という名のステージから降りた人
  • または、はじめから上がっていない人

によるものとして取り扱わなければならないことがわかりました。

供養レベル4:日本語の[さら]とはどういう概念か

今の僕には何ができるの(Tsuneta2019)


ここからは上級者向けコンテンツです。

供養レベル4では、日本語の[さら]とはどういう概念かを解き明かしていきます。

といっても、私の知る限りでそのしくみを言語化して説明しようとした酔狂な先例がないだけで、ふだんから日本語を使っている人ならきっとみんな知っているはずのことです。けれどもごく一部でとんちきな珍説が生まれる素地はあるようなので、酔狂なまねをくり広げることといたします。

日本語[さら]の概念図

結論から始めます。日本語の[さら]を図に書くと、こうなってます。

さら概念図

図:[さら]の概念

日本語のさらは、次の3つのメソッドから成り立っています。

  1. instantiate インスタンスの生成
  2. enumerate 列挙
  3. evaluate 評価

図に示した上から順にそれぞれ、

  1. instantiate:基底概念(クラス)から複数のインスタンスを生成する
  2. enumerate:生成したインスタンスを何らかの評価軸上に列挙する
  3. evaluate:その尺度で評価する

を行います。この一連のふるまいをまとめて[さら]と呼んでいるのです。それを図示したつもりです。

上の図を嫁に見せたら「台車?」と言われました。台車でいいです。

テストデータとしての\平成歌謡祭/

ただマンスプレイニングしてもつまらないので、平成の世を彩った数々のフレーズたちをテストデータに使います。

先ほどのリストの[さら]を、一部順番を入れ替えて次の順でテストします。

平成「さら」歌謡祭、スタートです。

更に(さらに)

まずは「さらに」。

弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく(真島1988)

  1. 「弱い者」のインスタンスAとBを生成し、
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. 「弱い者」の度合いがA<Bである

と言ってます。[さら]の持つ論理構造を余すとこなく表す、とても美しい用例です。

細かく言えば「弱い者達」と複数ですので、「弱い者」インスタンスAはオブジェクト配列で実装するべきです。しかし説明が煩雑になるのを避け、そこらは以後も省略します。図も簡略化して示しています。

長い沈黙の後 態度を更に悪くしたら(椎名1999)

  1. 長い沈黙の前後で「態度」のインスタンスAとBを生成し、
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. 悪さがA<Bである

と言ってます。

明示されていませんが、沈黙前の態度Aも「悪い」ことを含意しています。

ABどちらの態度も「悪い」けれども、その度合いを比べたらA<Bだ。

これがこの用例での「更に」が持つ情報です。

余談ですが、時を経てステートの変化するミュータブルなインスタンスにせず、ステートレスな2つのインスタンスを生成する方がシンプルでおすすめできる実装です。知らんけど。

この例のように、「生成」「列挙」「評価」の一部要素が既に自明扱いされていたりして、文脈から補わなければならないパターンの方が実は[さら]の多数派です。

さらに時を重ねて、ひとつずつわからなくなって(ハルイチ2000)

  1. 「時」のインスタンスAとインスタンスBを生成し
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. その総量がA<B

と言ってます。

インスタンスA、Bのデータ型はともに「時」のオブジェクト配列です。この用例では時間軸上で時の総蓄積量を評価していますので、重ねれば重ねるほど「さら」です。「わかる-わからない」はまた別の評価軸です。

思いがけなく歴史は さらに深いけれど(愛2003)

  1. タイムライン上の任意の2点でインスタンスAとインスタンスBを生成し
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. それぞれの「歴史」の総量がA<B

だと言っています。メソッド1.2.の「生成」「列挙」が半ば自明に展開されている例です。

ここでの「歴史」とは、「なきなきの一日」や「自転車の旅」やその他書き表せれない出来事の総体であり、「深い」とはそれらが蓄積されていくさまを形容していると理解できれば、先掲の(ハルイチ2000)と同形だとわかります。

「活用しない」論の謎は解けた(かも)

ここでふいに、(野口2018)が「さらに」は活用しないとか言い出してる事情がつかめました。きっと、「さらに」を「さらなる」に置き換えても文意が通じるパターンがあるからでしょうね。

ここまでのテストデータを置き換えて通じる通じないを判定してみました。

  • ○ さらなる弱い者
  • × 更なる悪くしたら
  • ○ さらなる時を重ねて
  • × さらなる深いけれど

通じたり通じなかったりするのは、別品詞の「さらなる」に変わることで前後の修飾被修飾の関係も変わるからです。いわば単語間の分子配列が変わるからなんですが、なまじ通じるケースがあるがために「さらに」を活用させているように見えるんでしょう。

「さらに」を「さらなる」へ置き換え可能なケースが存在するのは、極言するとたまたまです。

更更(さらさら)

同じように「生成」「列挙」「評価」の3つを確認していきます。

機嫌をとる気もその気も さらさらないですが(松本,ウルフル1997)

現代語の「さらさら」は否定の方向に評価のベクトルが固定されています。

  1. 複数のいろいろな「気」のインスタンスを生成する点では同様ですが
  2. それらは肯定否定の評価軸上に列挙されることがデフォルトであり
  3. 評価についても、生成したインスタンス間で行うというよりも、むしろ肯定側に置かれた仮想の対照群との比較によってなされる

という形を取ります。基本的な[さら]の構図を保ちつつも、「否定を強調する」という用途に特化したカスタマイズ仕様となっています。

けれども「さら」を重ねた当初は、「多摩川にさらす手作り佐良佐良に」の歌にしても、評価に関する現代的な制約はなかったかあってもごく微弱だったと推定できます。

今更(いまさら)

次に、「さら」と他の基底概念を組み合わせたパターンです。

あふれる想いを 今さら 投げかけてみるよ(森友1991)

  1. (仮想のインスタンスAを規定したうえで)「想い」インスタンスBを生成し
  2. タイムライン上に並べたとき、
  3. 「投げかけてみる」適切な時機から乖離した度合いがA<Bだ

と言っています。

日本語の「いま」は「時間的な現在」と解釈されがちです。大半はそれでまかなえるのでいいといえばいいのですが、より厳密に定義するなら、[いま]とは「発話者の基準による最近傍」を指す概念です。情報科学のタームで言えば、ANN(近似最近傍探索)の計算解のことです。知らんけど。

「今さら」には、より適切な時機があったはず、という話者の「想い」が込められています。

猶更・尚更(なおさら)

「なお」は[さら]の構図を強化促進する方向に働きます。

他人じゃないなら なおさら なおさら(中島1992)

  1. インスタンスA「他人」とインスタンスB「他人じゃない」を生成し
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. それぞれでの命題の適合度合いがA<Bである

と言ってます。

ここでの命題とは、直前に提示された「恋しさはこわれもの」「せつなさはこわれもの」です。

そして「なお」の存在により、明示されずとも、インスタンスA「他人」の場合にもこの命題が成立することが一段と明確です。

「他人」ならこの命題がたとえば☆3つレベルで当てはまるなら、「他人じゃない」なら☆4つ5つだというのが主張の骨子です。

殊更(ことさら)

「こと」と組み合わせることで、[さら]により生成された特定のインスタンスに着目することが主眼となります。

殊更にあおる永遠の中で絡まってる(森山,御徒町2018)

解釈が難しい例ですけれども、「殊更にあおる永遠」をひとかたまりと見て

  1. さまざまな「あおる」インスタンスを生成し
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. 「あおる」度合いが、他のインスタンス<永遠である

となりましょうか。

ざら

「列挙」「評価」は既に自明とし、もっぱら「生成」メソッドに着目したパターンと言えます。

そんなヤツラはざらにいるだろ?(Kato2002)

  1. 「そんなヤツラ」のインスタンスを生成したら
  2. 共通の評価軸に並べられるのも自明
  3. 「そんな」度合いも既に自明

と言っています。

「そんなヤツラ」は既に世にあふれています。そこへ重ねてインスタンスを生成して評価しようとしてるわけです。そのさまを、「さら」を濁らせ「ざら」と言ってます。

ひょっとすると「ざら」のルーツは別かもしれませんが、構図が共通していますので[さら]ファミリーに加えました。

新・更(さら)

このパターンも「列挙」「評価」のメソッドは自明となっており、共通の評価軸を持つインスタンスの「生成」が主眼です。

真っ新に生まれ変わって 人生一から始めようが(Tsuneta2019)

  1. 人生一から始められるインスタンスを生成する

それを「新(さら)」と言っています。

このケースでは、共通の尺度で列挙・評価できる同種のインスタンスは既に世にあふれています。強引に言えば「ネタがかぶってる」状態です。そんなところに人生一から始められるようなインスタンスをもう1つ生成するわけです。そこが「さら」なんです。

[さら]ファミリーの中では新顔の「新しい」という意味も、[さら]共通の論理構造から生まれたものであることが理解できましたでしょうか。

余談ですが、プログラミング言語のC++やJavaでインスタンスを生成するときの演算子は「new」です。コンストラクタなどで

this->ptr = new int[3];
Properties prop = new Properties();

みたいに使います。生成したインスタンス単体で見れば、さら=newですが、既に定義したクラスの側から見れば、さら=yet anotherです。

新しい「さら」出典探訪

「新しい」意の「さら」が登場する古典籍を簡単にたどっておきます。

『浪花聞書』(1819頃)は

『倭訓栞』(1830)は

増補版『俚言集覧』(1899)は

  • 「江戸にてもサラ地などいふ言は空地をいふ」(113コマ
  • 増補注で「大坂詞 ものゝあたらしきをいふ」(同)

としています。上方発との見方がやや優勢ですが、判断材料が少なく発生と伝播のプロセスまでは不明瞭です。しかし『日国』が『浪花聞書』を出典に採用していることからして、19世紀に広がった用法であることの蓋然性は高そうです。

もう1回念を押しておきますね。1000年以上遅れて19世紀にようやく文献に現れた[さら]ファミリーの新顔が、さら「本来」のわけなかろうもん。

更(さら)

でもって、さらなる=”さら”である です。

さらなる夢に向けて 君の背中にそっと押す(ケツメイシ2000)

  1. (「夢」のインスタンスAがあるところに)夢インスタンスBを生成し
  2. 共通の評価軸に並べたとき、
  3. その累積量がA<B

という関係です。さらなるの機序としては3.からさかのぼり、A<Bである夢インスタンスBを生成するという流れです。そうして生成したインスタンスBが「さらなる夢」です。

ここまでの一連の[さら]ファミリーと、論理構造はなんも変わりません。

飯間浩明さんのツイートへのいちゃもん

これでようやく、「大同」の側の「小異」に触れられます。

飯間さんの一連のツイートに異議が3つありました。どれも小さな話なのでまとめて扱います。

「平成に登場した」は妥当

1つめ。「どうも無理っぽい」と否定的な見解を示していた「意見」を

「さらなる」は平成に登場した誤った日本語

と表していることです。この意見のどこからどこまでを否定しているのかが紛らわしいです。

上の一文で明確に否定できるのは「誤った」です。「さらなる」が正統の日本語であることは当記事でもアホほど示しました。

他方で「平成に登場した」は必ずしも「平成に生まれた」を意味しませんし、(野口2018)も「さらなる」が平成生まれだとは主張していません。

(野口2018)はこう言います。

昭和の時代の白書を見ていただきたい。こんな妙な言葉はみられない。

本当でしょうか。昭和の時代の白書、正確には日本語コーパス「少納言」を見てみました。

結論から言うと、厳密な意味では外れてますが、大筋で妥当でした。

少納言には、1976年~2005年の白書が収録されているといいます。

白書を「さらなる」「更なる」で検索した計105件のうち、103件が平成以降のものでした。残る2件の「さらなる」は、昭和63年版労働白書の「さらなる円高」と「さらなる低下」でした。翌年の白書は平成元年版ですので、昭和最後の労働白書です。

ですから「さらなる」を「平成に登場した」とするのは、少なくとも官公庁の出す白書についてならおおかた妥当なものいいです。

「平成に登場」は否定してないのかもしれませんが、「遅くとも明治」うんぬんと時期の話が続くので、誤読しやすくなってます。よくない。

むしろ変化していない

2つめ。

と、「意味が違う」の論調に乗っかってることです。「さらなる」に関して「変化」の土俵に誘い出されて論を進めるのは筋が悪いです。

なぜなら日本語の「さら」ファミリーは、出現当初から現代に至るまで一貫した論理構造を持っているからです。「変化」と認められるのは誤用説が根拠にしたがる「言うも更なり」を圧縮した派生義ぐらいであり、ほかはどれも基底概念[さら]の仕様に則っていることを、このレベル4で示したつもりです。

派生義の「言うまでもない」にしても、供養レベル3でその理路を示したとおり、[さら]から真っ当に導けます。よって「言うまでもない」も[さら]の仕様の延長上にあり、拡張仕様とみる立場も十分あり得ます。

「変化していない」に立脚することで、分が悪くなった誤用説が「ま、言葉は変化するから」と一般則へ逃げるのも引き戻せます。

その解釈は勇み足

3つめ。

としてるんですけど、あまりいいとは思えません。

その和歌の更なる恋を「さらに新しい恋」と解釈するのは、勇み足じゃないですかね。具体的に特定しておきますと、飯間さんが依拠したであろう『日本国語大辞典』の勇み足です。

精選版 日本国語大辞典 解衣の|コトバンク からです。

① 解いた衣類が乱れやすいことから「思ひ乱る」「恋ひ乱る」にかかる

こっちは全然わかるんです。

わからんのはこっちです。

② 衣を解いて、また仕立てるところから「さらなる」にかかる。

???

「また仕立てる」とか無理矢理すぎませんか。だって和歌の時代の「さらなる」は「いうまでもない」何かだったはずですよね。

で用例に「逢はずある~」の歌も付けてありますけれど、その歌1つで言ってしまってるんやないの?との疑惑が浮上します。ほかに枕詞の「ときぎぬの」が「さらなる」に直結するケースってあるんですかね? 複数あるんなら引き下がりますが。

国際日本文化研究センターが公開している和歌データベースで「とききぬの」を検索してみましたが、直後に「さらなる」が続く歌は前掲の1つだけでした。和歌を研究されてる方からの見解もほしいところです。

なんで食い下がっているかというと、この歌の「更なる恋」を、現代的な「さらに新しい恋」と解釈すると、歌が格段につまらなくなるからです。飲食店なら閉店秒読みレベルで味が落ちてます。

「更なる恋」は、旧来の語釈に従って読む方がずっといいです。

「逢はずあるものならなくに」、つまり、逢わずにいられるはずなんてないのに、からの「ときぎぬの更なる恋も」なのですから、解釈としては

胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの
それはそばにいること いつも思い出して(星野2016)

そうだよ心乱れてんだよ

君の中にあるもの 距離の中にある鼓動(星野2016)

感じてんだよああそうだよ恋だよ決まってんだろ言わせんな

と読む方が、つまり

  • 「ときぎぬの」は通常の「思ひ乱る」「恋ひ乱る」にかかる
  • 「更なる恋」は旧来の「いうまでもない恋」
  • この歌では「思ひ乱る」「恋ひ乱る」が、言うも更なることとしてスキップされている

と読む方が、ずっとずっとエモいですよね。

この歌の「更なる」が旧来の「いうまでもない」であっても「さらなるは誤用」の珍説ぶりに変わりはないので、歌の方はよりエモくなるように読んでおけばいいと思います。

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供養レベル5:野口悠紀雄さんの「平成サウダージ」

そこに確かに残るサウダージ(ハルイチ2000)


サウダージ(〈ポルトガル〉saudade)

遠い昔や失われたものにひかれる気持ち。郷愁。

出典:デジタル大辞泉 サウダージ|コトバンク

野口悠紀雄さんにとって「さらなる誤用説」とは何なのか、これも答えは5文字に集約できます。

サウダージ

です。遅くとも(野口2018)以降は間違いなくそうです。

最終ステージの供養レベル5では、現世の苦悩からの解放を目指す上級者向けに、その主張や文面ではなく、一連の誤用説から聞こえる「音楽」そのものに耳を傾けることで、それ自体を読み解いていきます。

「ランダム」ではなかった半角スペース

(野口2018)に対して、Twitterで面白い指摘をしている方がおみえでした。

なんででしょうね。

結論を書くと、(野口2018)は(野口1998)のワープロ原稿をコピペして書き始めたからですね。20年越しのリライト芸なわけです。エモいですね。

あくまで推測の域ではありますが、確度の高い推測だと自負します。

証拠はいくつかあります。1つは、半角スペースの入っている位置の多くが、(野口1998)の改行位置と一致していることです。チラ見せすると、こんな具合。

p87-saranaru19982023-10-29_space_104714

  • (野口1998)p.87より
  • (野口2018)より

ですから「ランダムに」は正しくありません。ランダムでなく法則性があります。

もう1つ、(野口1998)からのコピペを裏づける証拠は「(図の[古語2])」とあることです。先ほどはスルーしてそのまま引用しました。消し忘れてますね。実際のところコピペ先の(野口2018)の方に図はありませんから。

ほかにも(野口2018)には文字や約物の欠落・不一致・不整合が多く見られ、校正の甘いテキスト特有の愛らしさにあふれています。

野口悠紀雄さんにとって、平成最後の大みそか付で20年越しに「さらなる誤用説」をリライトすることがどんな意味を持つのか、そこを推し量らなくてはいけません。

聞こえてきた「寂しい」

供養レベル3で、野口悠紀雄さんの「さらなる」言説を

  • 「学問」という名のステージから降りた人
  • または、はじめから上がっていない人

によるものとして取り扱わなければならないと結論づけました。

「さらなるは誤用」と妄信した果てに「国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない」と主語をデカくして妄言を誇大させる野口さんに、

なるほどお説は承りました。でしたら、無実の「さらなる」に罪を着せて攻撃的な言辞をくり返す困った国民は、どうなりますか?

と真っ正面から問い返しても、ただただ虚しいのであります。前段で当然に起こる疑問の、なんで「さらなる」を使う=「国語を大事にしない」なの?をスルーしてもなお、虚しいのです。「困った人」は「困っている人」なのです。

辞書にも推したい21世紀のことわざ「困った人は困っている人」
困った人は困っている人 私の推したい「21世紀のことわざ」です。 今はまだローカルアイドルぐらいのその知名度を、全国区の国民的レベルへと押し上げたいのであります。

そこで学問的見地からの妥当性を一度抜きにして、(野口2018)をはじめとする「さらなる誤用説」の奏でる音楽に耳を傾けてみることにしました。何に困っているのだろうと。

するとそこから聞こえてきたのは、強烈な「寂しさ」でした。エリナーリグビーも墓から出てくるレベル。

  • この表現が使われているのを見て、絶望的な気持ちになった(野口1998)
  • 私は、絶望的な気持ちである。(野口2002)
  • 私 は、絶望的な気持ちである。(野口2018)
  • 私は、絶望的な気持ちです。(野口2020)

と、誤った信念に基づいてくり返されるおかしな話のあいまから

  • 雑誌の編集者でも平気で使う人がいる。注意すると、怪訝な顔をされる。(野口1998)
  • この訴えが、「隆車(りゅうしゃ)に向かう蟷螂(とうろう)の斧(おの)」より弱いものでしかなかったことは、認めざるをえません。(野口2023)

と、目いっぱい迂遠な表現でもって、寂しいとくり返し訴えていることに気づかされました。

他のテキストからもチェリーピックしますと、

認知症テストが必要なのは、警察ではないか?|野口悠紀雄
運転免許の更新の際に、70歳を過ぎると高齢者講習があり、75歳を越えると、それに認知症テストも加わる。この研修は、民間の自動車教習所で行なわれる。  3年前の高齢者講習では、こんな経験をした。  認知症テストの前に、予行演習がある。試験官が...

認知症テストが必要なのは、警察ではないか?|野口悠紀雄note(2019/03/07付)

で、運転免許の高齢者講習の席で講師にウザがらみする様子や

ChatGPTと井戸端会議をする~「あの名作映画」について雑談したら、感激の体験だった(野口 悠紀雄)|現代ビジネス(2023/06/25付)

で映画「市民ケーン」のラストシーンについてChatGPTと語り合い「感激」するさまを自ら披瀝するあたりからも、

…寂しい …大丈夫 …寂しい(ハルイチ2000)

と揺れる高齢者ごころが立ち現れてきました。

野口さんによる「市民ケーン」の話題には、資料読みの過程で何度か遭遇しました。書籍その他に著すだけではまるで満たされていなかったんですね。

ことに後者には、

しかし思い出してみると、この映画について誰かと語り合ったという経験はなかったのです。

これについて「話し合った」のは、ChatGPTとの会話がはじめての経験でした。

と、にわかに信じがたい独白もありました。マジすか? 本当なら、あまりに寂しすぎる話ではありませんか。

「さらなる誤用説」とは、野口悠紀雄という名の人工(人工?)知能が寂しさの果てに生成したハルシネーションだとも言えます。殊に、レベルEに達した最新バージョンの(野口2023)はその傾向が顕著です。

自力でたどり着いた「ひとり回想法」

高齢者福祉の世界では「サウダージ」を取り入れた実践が既にあり、「回想法」と呼ばれています。NHKアーカイブスに回想法ライブラリーがあるほどです。

なつかしい物や映像を見て思い出を語り合う回想法は、脳を活性化し情緒を安定させ、長く続けることで認知症の進行予防やうつ状態の改善につながる可能性があるといわれています。そして、高齢者の認知症予防や認知症患者の心理療法、リハビリテーションに活用されています。

出典:回想法とは|NHKアーカイブス 回想法ライブラリー

ライブラリーの監修者のひとり、黒川由紀子さんはこう述べます。

人は思い出によって自分を確認します。(略)年をとると、自分の人生をふりかえることが増え、思い出が心を大きく支えます。

回想法は、高齢者が思い出をふりかえり、仲間や聴き手と分かち合うことで、喜びや満足感を感じ、かけがえのない自分を再評価し、孤独感をやわらげる方法です。

出典:同上

野口悠紀雄さんにその自覚はないでしょうけれども、平成最後の大みそかに、図らずも「回想法」にたどり着いていました。(野口2018)とは、そういうテキストでもあります。というか、「平成サウダージ」こそが(野口2018)の本質です。

本当に必要だったのは「半歩下がった同行者」

(野口2018)以降の「さらなる誤用説」は、野口悠紀雄さんによる「ひとり回想法」の成果物である。

そうとらえたとき、「さらなる誤用説」をめぐる景色は一変します。それを受け止める側に求められる態度が大きく異なるためです。

ものの本には、こうあります。

回想法やライフレヴューでは、「その話は違うでしょう?」という問いかけはしない。聴き手は語り手の話を否定せずに、そのまま受け止める。家族や周囲の人たちにとって受け止め難いような語り手の強いこだわりが表現されても、多くの場合、それを否定したり正したりするようなことはしない。

出典:野村豊子『総説 回想法とライフレヴュー』(2023)p.278

全部で10挙がっている聴き手としての留意点から抜粋します。

話を批判的にではなくそのまま受容する

相手に十分な関心を示しているとわかる姿勢をごく自然にとる

語られる内容が事実と違うことがはっきりしていても、訂正したほうがよいとは限らない

出典:同上

「さらなる誤用説」を「なわけない」と即座に否定するのがダメな対応であるとした理由を、わかってもらえましたでしょうか。

語り手が聴き手に話したそのときにどう受け取るか、どのように聴き手が理解するかが問われている。いかに理解しようとも、その理解は聴き手の想像の産物であり、語り手が真に体験した内容や意味とは異なる。聴き手は、想像をできるだけ語り手に合わせるよう努力しながらも、そこには限りがあることを理解することも大切であろう。

出典:同・p.280

野村さんは、回想法における聴き手を「半歩下がった同行者」と表現しています。

回想法・ライフレヴューを行う者は、語る人の人生という織物をほぐし、また、紡ぎ直す過程に連れ添う半歩下がった同行者である。

出典:同・p.317

野口悠紀雄さんが本当に必要としていたのは、この「半歩下がった同行者」ではないでしょうか。そう思えてなりません。

編集者たちが生んだ「合成の誤謬」

ここで私は、これまで野口悠紀雄さんを担当してきた書籍、雑誌、Webメディアその他の編集者の皆さんを、氏名不詳のまま叱りたい気持ちです。

皆さんはこれまで野口悠紀雄さんのことを、ある程度堅いセールスの見込める著者、すなわちビジネスの相手、悪く言えば商売道具としてのみ取り扱ってきたのではありませんか。ビジネス以前のところで、尊厳あるひとりの人間として野口さんと接することはなかったのではあるまいか?と、一度そう自問してほしいのです。

仕事で接する相手には仕事上の礼節があれば十分、それは正しいです。コスト面からも最適な選択だとも言えます。しかし一人ひとりが個別に最適な選択をしたことで、全体として野口悠紀雄さんの抱える寂しさを誰も救ってこなかったのではないでしょうか。これもひとつの合成の誤謬です。

野口さんはとんちきな「さらなる誤用説」を発信することで自身の寂しさを紛らわせてきたのだとしたら、こんな悲しい話はありません。

2024年の『「超」回想法』待望論

ゆうに3桁はある野口悠紀雄さんの著書のうち、タイトルが『「超」○○法』フォーマットなのは、ベストセラーとなった『「超」整理法』を皮切りに全部で11冊あります。このフォーマットに沿った現在の最新著作は、今年(2023年)出た『「超」創造法』(幻冬舎新書)です。

目次

『「超」創造法 』生成AIで知的活動はどう変わる?|野口悠紀雄
『「超」創造法』 生成AIで知的活動はどう変わる?(幻冬舎新書)が9月27日に刊行されました。 これは、目次の全文公開です。 目次 はじめに 3 生成系AIは何ができるのか/どうすればアイディアを生み出せるか/単純労働者でなく、知的労働者に...

を見てみますと、ChatGPTを代表とする生成AIの使用感、向いてること向いてないことなどをレポートされていました。

私が先ほど叱った編集者の皆さん、今が次なる出版企画のチャンスです!

野口悠紀雄さんよりも年長の著者による『回想のすすめ』(2020)も見てみましたが、「回想はいいぞ」と推すのみで、回想法についてはノーマークでした。チャンスです。

もうわかりますよね?

野口悠紀雄さんの次回作のタイトルは『「超」回想法』で決まりじゃないですか!!

語り手に無理強いするのではなく、穏やかな時をつくり、新しいかかわりの体験を持っていただくことにも大きな意味がある。

出典:野村豊子『総説 回想法とライフレヴュー』p.280

「半歩下がった同行者」による出版プロジェクトが生まれることを期待します。

まとめ:有謬の者共

さらなるについて

  • 日本語の基底概念[さら]は、「インスタンスの生成」「列挙」「評価」という内部メソッドを持つこと
  • 「さらなる」は基底概念[さら]を継承する、れっきとした「正統派」であること

「さらなる誤用説」について

  • 「さらなり=いうまでもない」の暗記で停滞しており、「言うもさらなり」が「さらなり」へ収斂していった経過への思慮が欠落している点で、とんちきを極めた珍説であること
  • 誤用説は、学生運動へのうっすらとした反感から芽生え、「あいつら間違っている」が「あいつらの使うさらなるも間違っている」へ転移したと考えられること
  • 属性としてそう考える傾向の強かった大学教員のさらにごく一部に、うっすらと支持され続けていること

これらを理解してもらえれば、供養の施主としては幸甚であります。

人は何歳からでも学び始められる。それが私の信念のひとつです。

2023年に中島みゆきの新作を体験できる幸福を味わいながら、お別れです。

文献リスト

本文中での紹介は最小限にとどめ、末尾にまとめる形にしました。

だって 多いんだもん!!(愛2003)

さらなる誤用説の系譜

  • 野口1996:『「超」整理日誌』5 近ごろ気になる言葉の乱れ pp.36-43
  • 野口1997:『週刊ダイヤモンド』1997年9月6日号 「超」整理日記(59)「さらなる」を追放しよう pp.84-85
  • 野口1998:『時間旅行の愉しみ 「超」整理日誌3』11「さらなる」を追放しよう pp.87-94
  • 野口2002:『「超」文章法』 追放できなかった「さらなる」 pp.220-221
  • 野口2013:『「超」説得法』第1章 5「負の一撃説得」もある p.49
  • 野口2018:野口悠紀雄note 小言幸兵衛の日記:国語を大事にしない国民が繁栄できるはずはない
  • 野口2020:『書くことについて』根絶できなかった「さらなる」 pp.200-206
  • 野口2023:『超「超」勉強法』 国語を粗末にする国が栄えるはずはない pp.179-180

それぞれの詳細については、ひとつ前の記事

野口悠紀雄さんの「さらなる」敵視リスト【確認分】
この記事では、野口さんの著書その他から「さらなる」について確認できた記述を紹介します。 『「超」整理法』(1993)の教えに従って、時系列の順に並べてゆきましょう。読んでませんけどね!

もご覧ください。

プレイリスト・平成を彩ったフレーズ集

真島1988

TRAIN-TRAIN
THE BLUE HEARTS
¥255

森友1991

離したくはない
T-BOLAN
¥255

中島1992

浅い眠り
中島みゆき
¥255

松本,ウルフル1997

かわいいひと
ウルフルズ
¥255

椎名1999

正しい街
椎名林檎
¥255

ハルイチ2000

サウダージ
ポルノグラフィティ
¥255

ケツメイシ2000

新生活
ケツメイシ
¥255

Kato2002

VIOLATION
EXILE

愛2003

さくらんぼ
大塚 愛
¥255

星野2016


星野源
¥255

森山,御徒町2018

やがて
森山直太朗
¥255

Tsuneta2019

白日
King Gnu
¥255


ここから令和のプレイリストです。

石原2020


Saucy Dog
¥255

中島2023

有謬(うびゅう)の者共(ものども)
中島みゆき

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