【書き起こし】シュン@ひろしまタイムラインのモデル、新井俊一郎さんインタビュー(2015)

出典大好きヤシオくんじゃ。

期間を限ってそういうキャラでやっておるところですが、当記事では虫のいい切り替えモードでまいります。

ごあいさつ

例の「朝鮮人だ!!」ツイートをめぐる騒ぎをキャッチして以降、資料読みと「ひろしまタイムライン」関連ワードでのツイート検索が日課となっております。いえ、日課は盛りすぎでした。隔日の週3、4回ペースってとこです。

それはさておいて、ここ数日はこの記事のシェアがしばしばヒットします。いかんです。

NHK「ひろしまタイムライン」の問題点 - 中沢けい|論座アーカイブ
NHK広島放送局によるツイッターを使った企画「ひろしまタイムライン」が、ヘイトスピーチを誘発するツイートを流したと非難されている。1945年当時の広島市民3人の日記をもとにツイッターで時系列をたど

NHK「ひろしまタイムライン」の問題点 – 中沢けい|論座 – 朝日新聞社の言論サイト(2020/09/02付)

何がいかんかというと大きく2つあって、まず

いったいどんな資料をもとにツイートを作ったのだろうという深い疑問だった。

としながらその実「こたつ」から一歩も出ず、あまつさえ「こたつ」調査の痕跡すら見いだすのが困難という、コタツ of コタツ記事の言行不一致ぶりがひとつ。

加えて、にもかかわらず、同じくこたつの中から?同調するアカウントも多数観測でき、扇動し合いされ合いのエコーチェンバーがちぃとおかしなとこへ向かいかけてるなーとの危惧も覚えるのがもうひとつです。

この2つの組み合わせにより出典大好きヤシオくんの目に余るレベルとなりました。いかんです。

そこでその「返歌」として、次の音声資料をテキストに書き起こしておくことにしました。

書き起こすのは、NHKアーカイブス「原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ」の証言ライブラリーに収められたラジオインタビュー「語り継ぎたいあの日の記憶」(2015年放送)です。

エラー - NHK

原爆の本当のむごさを伝え続ける

語るのはもちろんこの人

2020-09-05_12-23-29

※画像は同ページより

みんな大好きシュン@ひろしまタイムライン(@nhk_1945shun)、そのモデルとなった元軍国少年、新井俊一郎さんです。

原爆の本当のむごさを伝え続ける 新井 俊一郎さん(2015年)

途中の見出しやらコメントやらDJ気取りの選曲やらは、「突撃!ヤシオくん」ことヤシロがテキトーに付けとります。邪魔ならスキップしてつかぁさい。

助かってしまった、生き残ってしまった

新井俊一郎さん(以下、「新井」)
われわれ被爆者の皆さんは、私だけじゃなくてみんなそうだったと思いますけれどもね、助かってしまったと、ないしは生き残ってしまったと、言ってると思います。生き残ろうと思って逃げたんじゃないんですから、みんな。生き残ってしまった人たちちゅうのは、その負い目というか重みをずぅーっと抱えて、生涯生きなきゃならない。

(ナレーション)「生き残ってしまった」負い目。そう語っているのは新井俊一郎さん(83歳)です。新井さんは、昭和20年、広島高等師範学校附属中学校、今の広大附属中学校の1年生でした。当時、広島の中学生の多くが、市内の建物を取り壊す作業にかり出されていましたが、新井さんの通う学校の生徒たちは、7月になって食糧増産のため農村に向かうことになりました。広島からおよそ30キロ離れた場所に向かうというこの学校の判断が、生徒たちの運命を分けることになりました。

あゝ紅の血は燃ゆる

新井:われわれは、賀茂郡原村というところに集団的に動員で出動していって、お寺とお宮に合宿生活をして、農家にお手伝いに出動するという働きを毎日くり返してやってたわけですけどもね、生徒は死んでも学び舎を守るべきであると。死すとも、いわゆるね、「死守せよ」という言葉がありますよね、死んで守る。持ち場を死守せよという精神でやるべきであるというふうに主張した先生も、学校長先生はじめとして何人かいたようですけども、やっぱり、あのぅ英断というかこの死地を逃がすべきであるという先生がたの方が多かったと。

動員ということで農村動員ということでもって、生徒たちにそれでなくても足りない食糧を増産させることは、われわれ学徒動員命令の大義に反するものではないと。学徒動員の歌の文句にあるとおり、われわれは鍬かついで畑を耕して食糧を増産することも国に報いる道であると、いうことに一致したということですね。だから一生懸命先生がた走り回って、子供たちを受け入れてくれる村を探したわけですよ。不思議な学校ではあったと言えるでしょう。でもそれができた学校だから、われわれは生き残ることができたんだよね。


君は鍬執れ 我は鎚
戦う道に二つなし

国の使命を遂ぐるこそ
我等学徒の本分ぞ
ああ 紅の血は燃ゆる

(作詞:野村俊夫 作曲:明本京静)
以上joysound.com より

あゝ紅の血は燃ゆる(学徒動員の歌)(1944)
酒井弘/安西愛子
¥255

あの日 わたしは ~証言記録 広島原爆~

(ナレーション)新井さんたちが広島市を離れ農村に移り住んでおよそ2週間後、広島市に原爆が投下されます。市内で一緒になって建物疎開作業にあたっていた他の学校の中学1年生は、ほとんど亡くなりました。新井さんの小学校時代の同級生たちも含まれていました。広島市内に戻った新井さんは、全身にガラスが刺さって大けがをしている両親と再会を果たすことができました。そして夜になって、新井さんは小学校の時の同級生、新久(しんきゅう)さんが亡くなったと連絡を受け、新久さんの家に駆けつけました。

新井:枕元にいたお母さんが、私の姿を見て新井さんよく来てくれましたと。この子は、11時ごろなんとか目が見えなくなった状態だけどたどり着いて息を引き取ったと。で死に際に、死にたくないと、悔しいと、死んでたまるかと言いながら死んでいったと。だから新井さん、仇を取ってくれって言われたんですよ。

で、ぼろぼろ泣きながらね、こっちも、絶対仇を取りますと、約束はしましたけども……約束は果たすことはできませんでしたね、15日、日本戦争負ける、戦争は終わる。

食い違う「タイムライン」

ただし、同じく新井さんによる下のページでの証言と比べると「タイムライン」には食い違いがあります。

無念の思いを届けたい 新井新一郎さんに聞く - 遺言「ノー・モア・ヒロシマ」-未来のために残したい記憶-
被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会5集新井証言無念の思いを伝えたい――新井俊一郎さんに聞く――生年昭和六年(一九三一年)十一月生まれ(インタビュー時七十五歳)被爆当時十三歳(広島高等師範学校附属中学校一年生)被爆地当日午後、東大橋から入市し...

無念の思いを届けたい 新井新一郎さんに聞く – 遺言「ノー・モア・ヒロシマ」-未来のために残したい記憶-(2016/08/11付;2007年の聞き書き)

こちらでは投下当夜ではなく、翌日、学校へ連絡文書を届けに行ったエピソードの後に記されていました。「次々と亡くなる友人」の段です。ま、記述が時系列順になっているというのは、こちらの勝手な前提ですけどね。

ここでは「同一人物の証言であってもディテールが食い違う(ように思える)こともある」事実だけを確認しておきます。

「ひろしまタイムライン」は7日朝のタイミングでつぶやいていますね。

もし75年前にSNSがあったら、親友の亡きがらの枕元でスマホ出してぽちぽちやったんかいな?とか、奇妙な光景を想像してしまいました。

死んでいった者、生き残った者

(ナレーション)戦後15年ほど経ってから、社会人になっていた新井さんは、新久さんの母親と街で偶然出会いました。

新井:したらそのお母さんが、凝然(ぎぜん)として立ち止まったまんま私の顔をずーっと見てね、うちの子が元気やったらなあとおっしゃって、ぽろっとこう涙をね、流したんですよね。その場をどうやって私は自分の姿を消したか覚えてませんけども、いたたまれませんでした。

死んでいった6300人の中学1年生は、生き残った私たち附属中学1年生の小学校時代の同級生だったわけです。で彼らは死んでいったのに、附中、附属中学校に来たわれわれは、生き残ってしまったんです。どうして彼らの遺族の前に、おめおめと顔を出せますか。折り合える前に、花を供えたいと思ってお参りにいくことできませんでしたよね。

だから遺族の前に姿を現すことはおろか、自分が生き残ってしまった理由なんか語る、なんてことできるはずがないじゃないですか。


日本中望みをあからさまにして
日本中傷つき挫けた日がある

だから話したがらない だれも話したがらない
たまに虚像の世界を翔びたいだけ

――中島みゆき《ショウ・タイム》(1985)

ショウ・タイム(リマスター)
中島みゆき
¥255

40年目の『昭和二十年の記録』

(ナレーション)働き始めて家庭を持ってからも、亡くなっていった人たちに申し訳ないという気持ちは消えず、遺族と接することも避け続けていました。戦後40年ほどが経ち、新井さんはかつての広大附属中学校の生徒たちに呼びかけて、当時の体験をまとめることになりました。

新井:停年50歳が目の前に見えた頃になって、昭和20年という年を記録しなければならないではないかと、いう気持ちがみんなの中に芽生えて、われわれは助かったということも含めて、われわれの中だけでも、記録して残しておくべき価値があるんではないかという気持ちで、『昭和二十年の記録』という本を内うちで作ったんです。

『昭和二十年の記録 全滅を免れた附中一年生』(「昭和二十年の記録」刊行委員会編, 1984)のことじゃの。
わしはまだ見とらんが、郷土資料として広島県下の図書館にいくつか収蔵されとるのぅ。

遺族との“雪どけ”

(ナレーション)この手記をまとめたものがきっかけで、一本の電話がかかってきました。原爆で亡くなった新久さんのお兄さんからでした。偶然、知人を介して新井さんたちがかつて発行した手記集を手にしたというのです。

新井:「生き残ってしまった」と書いてる君たちが、この60年間生き残ってしまったことにどれほど苦しんだかと、死んでった仲間たちを残して生き残ってしまったってことについてそれほど苦しんだことを、実は俺たち、はじめて知ったと。

自分の弟は原爆で、殺されていったと。で、しかし君たちは、生き残ってしまったと。悔しいし憎いとすら思ったけど、でもそれは間違いだってことをはじめて知ったと。生き残ってしまったという君たちも、死んでった自分の弟以上に、と言っていいぐらい、苦しんできたってことをはじめて知ったと。許してくれと、いう言葉がひと言あったんですね。

ぼろんぼろん泣きましたね。

許されたと、思いました。

それから、被爆体験をぽつりぽつりと、語り始めるようになりましたね私は。


ずっと泣いてた 君はプレデター
決死の思いで 起こしたクーデター
もういいよ そういうの
君はもうひとりじゃないから

――くるり《琥珀色の街、上海蟹の朝》(2016)

琥珀色の街、上海蟹の朝
くるり
¥255

「心の被爆」問題

(ナレーション)この一本の電話で救われたような気がしたという新井さん。このとき既に、73歳になっていました。新井さんは、2009年に被爆体験証言者の委嘱を受け、以来、平和講演などで多くの学生や観光客に原爆の悲惨さを語り続けています。そして、原爆がもたらした、時間が経っても決して消えない悲しみや怒りを、次のように語っています。

新井:体の被爆のみならず、心の被爆がやっぱりずっと尾を引いて、これはずーっと、代を何代も何代も越えていっても、残っていく問題だと思いますね。心の被爆は。

「心の被爆」とはまた、面白いワードじゃの。
わしの心の被爆線量を測ってみたら、どうなるじゃろね。
マツダスタジアム5個分ぐらいかのぅ。

私が語り続ける理由

(ナレーション)被爆から70年。ことし84歳になる新井さんは、体調のすぐれない日も増えてきたといいます。それでも、体力が許す限り体験を語っていく覚悟です。

新井:伝えていかなければ、また、同じ過ちをくり返すことにつながっていく、しかないと。

核兵器廃絶とかね、平和を希求するっていうよく使い古された言葉があるじゃないですか。あの言葉は証言では使わないことにしてるんです。ただ「絶対にイヤだ」っていって、そう言ってます。きれいごとやないですもんね。

行動しなきゃいかんと思いますね。少しでもいかんとほんとひとつでも一歩でもいいから、前へ進めていきたいと、思いますね。

書き起こしは以上じゃ。
わし、こりゃある意味モノホンの扇動コンテンツじゃ思うたぞ。

後記:フェイクとモノホン

そう最初はフェイクでいいのよ
最後にモノホンにしてしまえば

――椎名林檎《ちちんぷいぷい》(2014)

ちちんぷいぷい
椎名林檎
¥255

2、3補足情報をば。切り口となるキーワードは「フェイク」と「モノホン」です。

モノホン、知られてなさすぎた問題

ある意味モノホンのリアルガチ扇動コンテンツとも言える、新井俊一郎さんのインタビュー。

しかしページURLを入れてツイート検索しても、本日(9/5)時点で次の2件しかヒットしません。

しかも、どちらもシュン@ひろしまタイムラインの炎上騒ぎ発生後の今年(2020年)8/21付です。

ちょっとモノホン、まったく知られてなさすぎでしょ!

て、ほんの直前まで自分もそっち側だったことは棚上げ。背負い投げ~。

モノホン(は)ちゃんとしていた

新井俊一郎さんによる証言ページ「原爆の本当のむごさを伝え続ける」のフッターには次のような文言がありました。

コンテンツの閲覧にあたって

閲覧に際しては、以下の点について十分ご理解し、ご了承いただきますようお願いいたします。

動画や手紙などの証言は、その方が戦後数十年経った時点での知識と記憶に基づいてインタビューにお答えいただいた内容となります。そのため、記憶違いやあいまいな点が含まれている可能性があります。

証言の中には、現在では適切ではないとされる表現が含まれている場合がありますが、修正などはせずにそのままにしています。

ですよねー。これ大事。いくら感情に訴えられ感情を動かされようとそれはそれ。

NHKアーカイブス「原爆の記憶 ヒロシマ・ナガサキ」の証言ライブラリーの全部は見てませんが、たぶん基本的にどのページにも出すつくりだと思います。ちゃんとしてるやん。

コタツ記事のリアルな問題点

まくらで引き合いに出したコタツ記事「NHK「ひろしまタイムライン」の問題点」を、私は「コタツ記事」とレッテル貼りしているわけですが、コタツ記事であること自体は最大の問題ではないです。私が最大の問題と感じたのは、事実同士の結びつけ方が雑すぎることです。

1945年当時の13歳の少年の日記としながら、21世紀に入って日本社会で広く流布された朝鮮人を巡る偏見やデマが混入しているのではないかという疑いが濃いからだと考えている。

どーなりゃーそげな疑いが濃ぅなるんかのう。
すまん、わしの理解超えたわ。

記事筆者の中沢けいさんは、9/2時点で「無料公開になっています」とツイートで告知されていました。しかし先ほど閲覧したところ、後半は会員限定でした。

  1. 9月2日に筆者が「無料公開」と告知していた。
  2. 9月5日にヤシロが閲覧したら記事の一部が会員限定だった。

どちらも事実です。2つの事実を結びつけるストーリーはいくつか考えられます。私がひとまず描いたのは「(他の多数の記事同様に)公開当初は全編無料扱いだったが、ある時点で公開設定が変わった」です。ただし検証はしていません。

けれどここに件のコタツ記事の論理を当てはめてみると、後者の事実2.を元に「都合が悪くなって隠蔽した疑いが強い!会員限定に至った経緯を調査して説明しろ!」とか言ってるわけですよね。

そういうの穏当に言って早合点、悪く言えば妄想ゆうんやないですかね。

♪~

Watch & enjoy チャンネル切れば別世界

――中島みゆき《ショウ・タイム》(1985)

おわり

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