本当に教えたい「本当は教えたくない○○」のウソと欺瞞

本やネットの記事や動画のタイトルを中心に、世の中には「本当は教えたくない○○」があふれています。○○にはいろんな穴場スポットや便利グッズ、あるいはちょっとしたノウハウなどが入ります。

この「本当は教えたくない○○」が嫌いです。うざいレベルを超えて、嫌いです。本当に嫌いです。

どこをどうとってもウソだからです。ウソは嫌いです。

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※写真と本文は関係ありません

「本当は教えたくない○○」に潜む4つのウソ

どこをどうとっても「本当は教えたくない○○」にはウソが出てきます。

具体的には、次の4パターンです。

  1. 教えたくないがウソ
  2. ○○がウソ
  3. 「教えたい/教えたくない」という問題軸がウソ
  4. したくないことをしている自分にウソ

教えたくないがウソ

世の中の「本当は教えたくない」の大半に、私は「教えたくない」をまるで感じません。結局のところその何かしらを明かしてしまっているからです。

むしろ、喜んで教えたがっているように見えるケースがほとんどです。

ですので

  • 「本当は教えたくない○○」など、はじめから実在しない虚構ですよね。
  • 「本当は教えたくない」って、ウソですよね。

と疑う結果となります。

解決策その1

ウソはいけません。

「本当に教えたい」と書きましょう。

この記事タイトルにもそう書きました。「本当は教えたくない○○」がウソまみれであることを本当に教えたいからです。

○○がウソ

一方、教えられる○○だけを教えている場合もありえます。「本当は教えたくない○○」が本当にあるけれども、それは教えたくないので伏せているケースです。

この場合、挙がっている○○がウソになります。

※ただし、このケースも「本当は教えたくないがウソ」に含める分け方もあります。
当記事では「本当は教えたくない○○」が実在するかを基準とし、実在するパターンでは○○のラインナップの側にウソがあると分類しました。

解決策その2

ウソはいけません。

「別に教えてもいい○○」と書きましょう。

問題軸がウソ

発信する側にそこそこ影響力があるケースを想定してみましょう。中には発信者の「教えたい/教えたくない」の一存で決まる話でなくなるものが出てきます。

たとえば、古くからの常連客を大事にしたい飲食店などは、存在を教えられることで客層が荒れるのを嫌い、教えられることをOKしないというパターンも十分にありえます。

このときの論点は、「教えてよい/教えてよくない」です。「教えたい/教えたくない」の問題ではありません。

問題軸の設定がウソです。

解決策その3

ごまかしはいけません。

「関係各所への根回しの結果、教えられるようになった○○」と書きましょう。
発信者の「教えたい/教えたくない」は二次的な問題です。どちらでもいいです。

アンジャッシュの渡部建さんがらみの「本当は教えたくない」のいくつかはこのパターンです。知らんけど。

本当に「本当は教えたくない○○」なら自分にウソ

最後に、「本当は教えたくない○○」のどこにもウソがないケースを検討します。

すなわち、「本当は教えたくない○○」は本当に言葉どおりであり、本当は教えたくないのだけれども、不承不承、やむをえず教えている。というケースです。

このとき発信者は、「本当は教えたくない」自分の内心に嘘をついていることになります。教えているのですから。

このパターンが一番の大問題です。

発信者の意思がないがしろにされ、意に反する行動を強いられているからです。いかんです。いったいどういう事情があって、その人は、教えたくもない何かを強いて明かさなければならないのでしょうか? なぜ?

「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と定めた日本国憲法第38条にも反しています。こんなことが日本国内で本当に起こっていたら憲法違反です。

解決策その4

話は人の尊厳にかかわります。助けを求めましょう。

どこに助けを求めるのが適切かは、大変心苦しいですが、一概には言いづらいです。

まとめ:「嘘はよくない」も何割かウソ

ここまで、「本当は教えたくない○○」がウソと欺瞞に満ちた表現であることを解き明かしました。

ウソと欺瞞だらけにもかかわらず、私の見る限り批判的な論調は少なく、今なおネット内外では日夜「本当は教えたくない○○」が飛び交っています。なぜでしょうか。「本当は教えたくない」と銘打っておけば希少価値の高い情報だと錯覚させる作用があるからでしょうか。

などと考えを詰めてゆくと

ウソをついてはいけない

この一見正しそうな道徳律の何割かも、ウソであることに気づきました。

実際、一切の例外を認めないことを明確に打ち出して、

いついかなる場合でもウソをついてはいけない

としたとき、これに賛成できる人がどれだけいるでしょうか。人並み以上にウソを嫌っている私ですら、賛成しません。

世の中の普通の人の多くは、「ウソをついてはいけない」と「時と場合によってはウソをついてもいい」を使い分けています。感覚的に言うと、6対4ぐらいのブレンドです。

「つまらない真実」よりも「面白いウソ」を好むのはヒトのヒトたる性質でもあり、一律に否定しづらい面もあります。

それでも「本当は教えたくない○○」のような心地のよいウソに酔いしれることは非常に危険です。現実をあるがまま見定め、あるがままの現実に対処する能力が衰えるからです。だから「本当は教えたくない○○」を言葉の綾の部類に入れることには反対です。

ウソと欺瞞まみれの「本当は教えたくない○○」をこれからも嫌います。

すべて、本当に教えたいことです。

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