永田町用語「一丁目一番地」のふるさと、筑波説

こんにちは。1月なので「1」にちなんだ説を持ってまいりました。

「一丁目一番地」のふるさと、筑波説です。

前々回の記事の「平成編」編に続き、前回の昭和60年の用例集を経ての「一丁目一番地」昭和編の完結版となります。

要約:Executive Summary

「一丁目一番地」という言い方があります。「最優先課題」(コトバンク > デジタル大辞泉の解説)ぐらいの意味です。

この言葉が採録されている国会会議録を参照して、次の結論に達しました。

(1)現今用いられる「一丁目一番地」のルーツは、通産省(当時の名称)です。

(2)「一丁目一番地」は、昭和60年度向けの予算編成時期に、通算省での内部用語として発生し、省内で用法が確立されていったものと推定されます。

(3)背景には、産業構造の変化に伴い「省益争いに敗れるのではないか」という通産省官僚たちの危機感があったと言えます。

というのが前回までで、

(4)通産省用語「一丁目一番地」の「ふるさと」は、茨城の筑波研究学園都市にあります。

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筑波研究学園都市|mlit.go.jpより

(5)具体的には、こちらの「つくば中央」です。

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※画像は、産総研 – 交通アクセス:つくばセンター:つくば中央 より

ちなみに昭和60年当時、このエリアの行政区分は「桜村」「谷田部町」でした。つくば市の市制施行は昭和62年(1987年)のことです。

結論

以上から、当ブログでは、現在の名称でいうところの「産総研」、すなわち「国立研究開発法人 産業技術総合研究所」を「一丁目一番地」のふるさとと認定いたします。

自称・日本一「一丁目一番地」に詳しいブログの結論です。

理由

というのも、昭和60年(1985年)に、当時の通産省[通商産業省/現・経済産業省]が集中的に「一丁目一番地」を使い始めた事実が認められるからです。

こちらでその用例を一覧にしました。

  • 【リスト】通産省発・昭和60年の「一丁目一番地」12連コンボ(2016/01/03)

この年になぜ突如?という疑問を考えるため、「一丁目一番地」の各用例を読み合わせてみると、「省益争いの副産物」というセンが浮上してきました。

「昭和60年」の「筑波」と書けば、勘のいい諸姉諸兄は「ああアレか」とピンとくるでしょうが、そうでない方のために、この後ろに、長い前置きの付いた長い長い説明を付け足します。

手っ取り早く「一丁目一番地のふるさと」に関する結論のみ知りたい方は、ページ内リンク「筑波説」へお進みください。

さかのぼり「一丁目一番地」の戦後史―国会会議録から

国会会議録検索システムを使って平成から昭和へと国会議事録をさかのぼり、「一丁目一番地」の戦後史をふり返ります。

データ:「一丁目一番地」の検索ヒット件数

国会会議録での「一丁目一番地」のヒット件数は、年代ごとに次のとおりです。新しい順に並べました。

  • 平成20年代[27年末まで]:379
  • 平成10年代:56
  • 平成一ケタ:9
  • 昭和60年代:15
  • 昭和50年代:3
  • 昭和40年代:15
  • 昭和30年代:50
  • 昭和20年代:41

これらの値、ならびにその変遷は何を意味するのでしょうか? そこ読み解いていくことにしましょう。

「平成編」については、前々回の記事「国会での「一丁目一番地」大流行、「噂の!東京マガジン」が育てた説」(2016/01/02)に書きました。興味がありましたらそちらへどうぞ。

古い方の昭和20年代から見ていきます。

「住所・所在地」の昭和20・30・40年代

昭和20~40年代の合計およそ30年間の「一丁目一番地」の用例は、合計で106件(41+50+15)ありました。これらはほぼ全部が「住所の地番」です。すなわち、文字どおりの「一丁目一番地」です。

ちなみにその場所は丸の内であったり霞ケ関であったり、時には横浜、名古屋、神戸の「一丁目一番地」であったりします。

「一丁目一番地」頻出の理由は「陳情」

なぜ住所の「一丁目一番地」がこれだけ登場するかというと、この頃の会議録には、その冒頭に陳情書の題名と陳情者代表の住所が書かれているためです。多いものだと数百件単位で列挙されていました。

業界団体からの陳情も多く、そのいくつかの所在地が「一丁目一番地」であり、会議録に残っているという寸法です。

昭和40年代に入るとこうした陳情に関する記載は議事録から姿を消してゆきます。経緯は調べておらずわかりませんが、この時期に、会議録に記載する事項についての内規が変わったのかもしれません。

昭和30年代、NHKのラジオドラマに「一丁目一番地」があった

昭和30年代の用例でひとつだけ、住所・所在地ではない「一丁目一番地」がありました。

昭和39年2月13日 参議院オリンピック東京大会準備促進特別委員会の、日本放送協会(NHK)専務理事の答弁からです。※下線は引用者

これはラジオでございますが、土曜、日曜に、いわゆるオリンピックに取り上げられる種目の解説あるいはやり方といったようなものをやっておりますし、また、連続ホームドラマ「一丁目一番地」、その中では、三十九年度のオリンピックにちなみまして、そのムードを盛り上げるような番組を組んでおります。

ラジオで「一丁目一番地」というタイトルの連続ドラマを放送していたようです。検索してみると、いくつか有力な情報がありました。

「一丁目一番地」放送期間について

こちらの記述が具体的でした。

昭和32年4月から昭和40年4月まで2025回にわたって放送された連続ホームラジオドラマ。

出典:トットチャンネル/テレビチャンネル
徹子の小さな放送局」という名の、謎の「黒柳徹子サイト」でした。

また、Wikipedia「NHKラジオ第1番組一覧」での記述も、1957年~1965年となっていました(上記サイトの引き写しかもしれませんが)。

ほかに1964年までという情報もあって、金をもらっての調査であれば図書館等で放送記録を調べて裏を取るところですが、面倒なのでここまでにします。

いずれにしても、NHKの「一丁目一番地」は昭和30年代に放送されていたラジオ番組だと言えそうです。

映画化されていた

放送開始翌年の昭和33年(1958年)に、「一丁目一番地」は映画化もされていました。シリーズが4本見つかりました。

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※画像は、一丁目一番地シリーズ|社団法人 日本映画製作者連盟 より

リストにもしておきます。いずれもモノクロ・シネマスコープです。東映の製作・配給です。

  1. NHK連続放送劇 一丁目一番地 1958/04/21公開 58分
  2. NHK連続放送劇 一丁目一番地 第二部 1958/05/12公開 53分
  3. NHK連続放送劇 一丁目一番地 おじいちゃんは日本晴れ 1958/10/29公開 61分
  4. NHK連続放送劇 一丁目一番地 町内ニコニコ会議 1958/11/26公開 64分

「NHK連続放送劇」がリアルタイムでの呼び方だったようですね。

第3弾・第4弾のサブタイトルなど、1周回って斬新です。

主題歌が聴けた

主題歌のCDも出ていました。Amazon.co.jpで試聴できます。

ディスク2の「11p.m.のテーマ」に目移りしたのはここだけの秘密です。

話を戻して進めます。

昭和50年代:「一丁目一番地」冬の時代

昭和50年代に入ると「一丁目一番地」は「冬の時代」を迎えます。国会で使われたのは10年間でわずか3例です。以下、用例を「コンプリート」しておきます。

(その1)昭和50年2月18日 参議院地方行政委員会

発生の場所は、四日市市の大協町一丁目一番地の大協石油の四日市製油所でございます。

石油タンク火災について説明する、消防庁長官の発言です。「現場住所」のパターンです。

(その2)昭和50年2月19日 衆議院法務委員会

この問題は、最高裁判所の旧庁舎、すなわち霞が関一丁目一番地の跡地の利用に関連する問題でございまして、

これも「現場住所」パターンです。

(その3)昭和53年10月20日 衆議院法務委員会

たとえば一丁目一番地一号居住の人が登記簿謄本の交付を申請する場合に、この地番で登記所に申請をしたのでは謄本がもらえない。

登記簿の地番と住居表示が合っていないことによる不都合の「例示」として使われています。

これで全部です。10年間でこれだけです。

昭和54~59年のあいだ、「一丁目一番地」は一切登場しません。まるで、長い冬眠に入ったかのようです。

昭和60年代の「答え」

Googleで「一丁目一番地」を検索するとトップに出てきたページ(2016年1月現在)の「最近よく聞く「一丁目一番地」ってどこ?|日本経済新聞(2011/02/08付)」には、こう書かれていました。

また霞が関でも、旧通商産業省などから出た用法で、予算で前面に押し出す目玉政策を指して「一丁目一番地」と表すことがあるといいます。

「旧通商産業省などから出た」「~あるといいます」とあやふやな伝聞形で書かれていました。

こちらで勝手に断言します。

発祥は、通産省

国会会議録の参照結果からすれば、現今使われるオヤジ語「一丁目一番地」の「発祥の地」は、通産省[現・経済産業省]と見て間違いないと言えます。

まる6年以上国会会議録に登場しなかった「一丁目一番地」が、昭和60年になって突如「最重要課題」という新しい使い方で復活するからです。

そして、当代オヤジ語としての「一丁目一番地」を国会で最初に使ったのは、当時の通産大臣、村田敬次郎(1924-2003)です。

反論を待つ

もし昭和50年代以前に他省庁が出した白書などに「一丁目一番地」が出ていればこの反証となりますので、情報をお待ちしています。

「一丁目一番地」はここ

一緒に「一丁目一番地ってどこ?」にも答えておきましょう。

筑波の研究学園都市です。

昭和60年当時の通産省にとって、オヤジ語ではない、文字どおりの「一丁目一番地」とはどこだったのか? それを考えたとき、答えは「筑波」以外にありません。詳しくは後述します。

国会会議録の用例から

昭和60年に入って、「一丁目一番地」は突如復活します。全部で13件の用例があります。

「前座」は国鉄本社所在地

「前座」は2月6日の衆議院予算委員会です。

総裁、まず最初に国鉄本社、どうして東京駅の前におらなければなりませんか。日本一の借金会社が、日本一の丸の内一丁目一番地におらなければならない理由はありません。まず本社を売りなさい。

「住所」パターンです。

しかしここの「丸の内一丁目一番地」には、「一等地中の一等地」の含みも込められています。新しい用法の萌芽が見られるとも言えます。

余談ですが、この発言者、

間もなく完成するであろう大宮-赤羽間の通勤新線のガード下に入ると、ここで約束しなさい。

赤字国鉄の本社なんて埼京線のガード下でいいじゃねえかと、けっこうめちゃくちゃなことを言っています。

ちなみに民社党(当時)の塚本三郎代議士です。余談でした。

永田町用語「一丁目一番地」の初出

「最重要課題」という意味の永田町用語「一丁目一番地」の初出はこちらです。※強調・下線は引用者

情報化社会というのは、二十一世紀に向けての大きな変革の一つでしょう。これと技術開発問題が一番重要だと思っております。これは通産省の一丁目一番地だということで督励をしておるわけでございますが、

出典:昭和60年2月15日 衆議院予算委員会

発言者は当時の通産大臣、村田敬次郎です。残りの用例は、ひとつ前の記事でリストにしました。

昭和60年の国会では、のべ12の会議で、合計17回「一丁目一番地」が記録されています。17回すべてが通産省関連の文脈であり、うち13回が村田大臣の発言でした。

正確には、「通産省用語」由来

以上から、その出どころは永田町ではなく「通産省用語」とした方が正確かと思います。

初出の用例を見てわかるとおり、現今の用法と遜色ありません。仕上がっています。

通産省の「一丁目一番地」=筑波研究学園都市 説

昭和60年の国会で、通産大臣を中心に合計17回発せられた「一丁目一番地」の用例すべてを読んでいくと、当時の通産省内部に、こういう危機感があったことが見て取れます。

  • 情報化など、産業構造の変化
  • →新分野での省益争いに敗れる
  • →予算取れない
  • →権益持てない
  • →うま味ない

わかりやすいのは、この大臣発言です。

言うなれば、この新しい時代に対応して通産行政、産業振興というものはいかにあるべきか、それは一丁目一番地と言われる技術開発を推進をしていくことである。もちろん、これは通産省一省でできることではありませんから、郵政省であるとかあるいは政府全体の力として推し進めていくわけでございますが、そういった趣旨で基盤技術ということを理解をいたしております。

出典:昭和60年3月27日 衆議院商工委員会

表面的には他省庁との協力協調を装うのが、いやらしいのであります。

昭和60年の現場「科学万博」

昭和60年度における新産業分野の省益争いの現場といえば、ここでしょう。

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Wikipedia「国際科学技術博覧会」より

「国際科学技術博覧会」、通称、科学万博、つくば(EXPO)’85です。

そしてこの会場こそが、筑波研究学園都市だったのであります。

Wikipediaの記述によると、主催は「財団法人国際科学技術博覧会協会」でした。当時の所管は、科学技術庁(文部省所管)です。なお現在は機能の大半が文部科学省に吸収されています。

時あたかも情報化時代の幕開け、この科学万博に通産省も全力で(※個人の主観です)乗っかっていこうとしたわけです。ぼやぼやしていると、科学技術庁、郵政省らにおいしいところを持っていかれますから。

「科学万博」ってなに?という方はこちら

昭和60年当時はまだ生まれていなかった、幼かったという方は、こちらで雰囲気を知ることが出来ます。ご参考まで。

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科学万博-つくば’85メモリアル|つくばエキスポセンター

通産官僚版・筑波の「本陣」

推測となりますが、「昭和60年度予算」「科学万博・つくば’85」「省益争い」となったとき、通産官僚の頭に浮かんだ「本陣」は、ここに違いありません。

再掲します。

産総研 – 交通アクセス:つくばセンター:つくば中央 より

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※産総研について「沿革」より

既に通産省所管の研究機関の多くが、昭和55年(1980年)までに筑波へとその拠点を移していました。

参考:Wikipedia「筑波研究学園都市」「産業技術総合研究所

「一丁目一番地」のふるさとは、ここ(たぶん)

ではここで、昭和60年当時通産省所管だったそれら研究拠点の住所を見てみましょう。

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産総研TODAY」創刊号 2001.4-1 (電子ブック版)p.32より ※PDF版もあります

ことごとく「一丁目1番地」です。

最初から「一丁目一番地」

念のため補足します。これらの「一丁目一番地」は、市制への移行(昭和62年)を期にではなくて、移転当初からの住居表示です。

1978年(昭和53年)(略)新治郡桜村梅園一・二丁目を新設。
1987年(昭和62年)(略)市制施行により、つくば市梅園一・二丁目となる。

Wikipedia「梅園(つくば市)

1978年(昭和53年)(略)筑波郡谷田部町東一・二丁目を新設。
1987年(昭和62年)(略)市制施行により、つくば市東一・二丁目となる。

Wikipedia「東(つくば市)

まとめ

「最優先課題」という意味の「一丁目一番地」が、昭和60年までに通産省の内部用語として生まれ定着したのは、同年に開催された「科学万博」「つくば’85」と、彼らが所管していた筑波研究学園都市の「本陣」の所在地に由来すると考えられます。

こちらからは以上です。

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