立花隆さんの臨死体験をめぐるおっちょこちょいぶりが相変わらずのようで、なによりです。(2014年9月14日OA「NHKスペシャル」関連)

こんにちは。用件はタイトルのとおりです。

今日(2014/09/14)、こんな番組が放送されるみたいです。

NHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」(NHK 2014/09/14 21:00-22:13 OA)

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20年余り前、臨死体験について徹底的に取材し考察を深めてきたジャーナリスト/評論家立花隆さん。74歳を迎え、がんや心臓の病を抱えて死を間近に感じる今、再び臨死体験の最新研究の現場を見つめ、“死”について思索しようとしている。

だそうです。

そんな告知情報だけでわかった気になって書いてみました。

この記事で言いたいこと

立花隆さんの、臨死体験をめぐるおっちょこちょいぶりが相変わらずのようで、なによりです。

当ブログでは、そんな立花隆さんの業を肯定します。

パート1.おっちょこちょいな問いに答える

番組サイトの告知テキストの冒頭からです。

『私』という存在は死んだらどうなるのか、死ぬとき『私』は何を見るのだろうか――。

この問いの立て方からして、おっちょこちょいの相変わらずぶりがわかります。

その相変わらずぶりを説明する前に、先に上の問いへの答えを書いておきます。

これが答え

立花さんが20年余り足踏みしているあいだに、私は既に答えを出してしまいました。

次のとおりです。

『私』という存在は死んだらどうなるのか?

答え:『私』という存在は死にません。

死ぬとき『私』は何を見るのだろうか?

2つの答え方があります。

答え1:どうでもいいです。

論理的にはあらゆる解が成立します。「『私』は死ぬ」という前提が偽だからです。

答え2:知りません。

『私』という存在は死にませんが、『私』という形式を借りた存在者である立花某なりヤシロ某なりは、いずれ死にます。

親切にも、『私』=立花某と読み替えてみると、上の問いは、

  • 死ぬとき立花某は何を見るのだろうか?

と書き換えられます。

知りません。電気羊の夢とか、そんなんじゃないの?

知りたきゃ死んでみればいいんです。

おっちょこちょいです。

パート2.「立花隆批判」のテキスト3編

ここからは、3つのテキストを借りて、立花さんのおっちょこちょいぶりを解説する試みです。

1)池田晶子『残酷人生論』(1998, 2010)

ひとつめは、池田晶子(1960-2007)の『残酷人生論』です。

「生死とは論理である」

同書の「生死とは論理である」は、こう始まります。

立花隆さんという人は、おっちょこちょいな人だなあ。

「おっちょこちょい」もここから取りました。引用つづきです。

先日、NHKの「人間大学」で、臨死体験の話をされているのを聞いて、私は思った。気持ちはわかるのだけど。

臨死体験の「不都合な真実」

池田はこう指摘します。

臨死体験を語る人は、ひとり残らず、生きている人である。(略)あれは、どこまでも、生きている人の言葉なのである。

おっしゃるとおりです。

なので、こんな具合にまぜかえされます。

そんなに知りたいのなら、死んでみれば!
意地悪でなく、率直に私はそう思った。

これもほんと、そのとおりです。先ほどパクりました。

これがもっとも重要な指摘です。

生死について考えるためには、事例は不要だ。論理だけで十分なのだ。

立花さんは、このことがわかっていません。

おっちょこちょいです。

2)プチ鹿島『教養としてのプロレス』(2014)

2つめのテキストは、プチ鹿島(1970-)さんの『教養としてのプロレス』です。

同書の第8章「無駄なものを愛す」で、立花隆さんへの反論が綴られています。

同書の記述によれば、1991年にプロレスを題材にした作品が「大宅壮一ノンフィクション賞」を受賞したのですが、その選考委員だった立花さんがこうコメントしたのだそうです。孫引きとなりますが引用します。

《私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある低劣なゲームだと思っている。(後略)》 (p.152)

「知の巨人」への“プチ”反論

立花隆、通称「知の巨人」。(p.154)

のスタイルを、鹿島さんはこう述べられています。

有益な情報だけをピックアップして、それを編み上げて合理的に生きていく。(略)これは大事、あれは無駄という仕分け作業。(略)合理的で隙のない知的な生き方だと思う。(p.155)

たとえると、こうなります。

まるでどこか、無農薬野菜や有機野菜しか食べない人に対する感心にも似ている。(p.155)

そして、その姿勢に敬意は払いつつも、「人生に無駄があっていいじゃないか」と、このように反論します。(下線引用者)

一方でどうしてもこう叫びたい自分がいるのだ。
「から揚げもおいしいよ」と。(p.155)

体に良いもの(世の中に有益なもの)だけを選んで活動する立花隆は、ストイックなのだと思う。立花隆自身はそれでいいかもしれない。だけどついつい、から揚げを食べてしまうのが人間ではないか。そういう人間の「業」や「大いなる無駄」を受け入れないで、肯定をしないで、何が表現者なのか。「どうだっていいもの」を見つめないで何がジャーナリストなのか。(pp.155-156)

重要な指摘です。

「から揚げ」を食べるか食べないかの人生なら、私は食べる人生を選ぶ。(p.157)

という鹿島さんのスタイルを、私も支持します。

得ることのない視点

鹿島さんはこうも述べています。

明らかに体に悪そうな「成分」を取り入れることで、人は何かを得ることも多くないだろうか。たとえば、新たな世界の見方を。立花隆が得ることのない視点を。(p.156)

そのとおりです。

こと「死」に対して、立花さんのようなスタイルで“思索”していては、どうやってもまっとうな視点を得られることはありません。

立花隆さんはおっちょこちょいです。

3)池田晶子『悪妻に訊け―帰ってきたソクラテス』(1996)

再び池田晶子のテキストからです。池田は、先に挙げた『残酷人生論』に先行すること数年、こちらの本で同じく立花隆さんと臨死体験について言及しています。

その記述は、同書の「待ちに待ってた臨死体験」の段にあります。

「待ちに待ってた臨死体験」

池田がより血気盛んな頃の著作であるため(かどうかは知りませんが)、立花さんについて

ものを考えるときの考え方が、根本のところでわかってない。自分が何をわかろうと思ってるのか、わからずに考えてるんだから、いくら考えたってわからないのは仕方ないのだ。

と、ソクラテスの言葉のていで、いっそう辛辣に言い放っています。

人は、本当のことがわからない、本当のことをわかりたいと言う。しかしその「本当」という言い方で何を言っているのか、自分で必ずしもわかっていない。

たとえばこの立花君、「死後の世界は本当に在るのか」という言い方で何を言いたいのだろう。何を何でわかれば本当にわかったことになるのだろう。

あとのこのくだりで、完全にとどめを刺されています。(下線引用者)

何もかもが最初っから不思議なことなのに、何かひとつことを取り立てて不思議がる道理がないと僕は言ってるのだ。だってお前、臨死体験不思議がってるんだったら、なんで臨生体験は不思議じゃないのかね。僕らが今自分の生に臨んでいるというこの体験を、なんで当たり前と皆思い込んどるのかね。

やめて~ソクラテス~ です。

補足情報

なお『悪妻に訊け』は、別タイトルでの文庫版、あるいは「ソクラテス」シリーズ3冊の合本にもなっているようです。

まとめ

番組を見てもいないのに断定的に言ってしまいますが、20年余りの時を経ても、相も変わらずのスタイルで“思索”を続ける立花隆さんは、相変わらずおっちょこちょいです。

ですが私は、そんな立花さんの業をまるごと肯定します。

でなければ、生死のことなど「わからない」ということが、それこそ死んでもわからなくなってしまう。そう確信するからです。

また当時、立花さんを痛烈に批判してKOした(レフェリーby俺)池田晶子は、とうに死にました。けれども『私』という存在はびくともしません。

このあたり、立花さんも一度死んでみればわかるかもしれません。

ご静聴ありがとうございました。

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