自分語りによる「手作り神話」へのゆる~い反論の試み―7月14日「あすなろラボ」林修さん授業感想(3)

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こんばんは。林修ナイトの時間です。

7月14日放送「あすなろラボ」での林修さんの母親向け授業に対する感想シリーズ、その3です。

ゆる~い反論の試み

授業の中で林さんは、「馴致」という表現の入った吉本隆明の文章を援用して、

  • 女性が家族から慕われるには、ご飯しかない。家で手作りのものをちゃんと食べさせる。そこは絶対に譲っちゃダメ

と説いていました。

この主張に、ゆる~く反論するのが今回の記事の主眼です。

林さんは「これは正しいと思う」と言われていましたが、僕は正しくないと思います。

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反論プラン

次のようなケースに該当する具体例を提示できればよいだろうとプランしました。

  1. 家で手作りのものをちゃんと食べさせたのに、馴致できなかったケース
  2. 馴致できたのに、慕われず、死んだ後でも懐かしがられないケース
  3. 料理の味に馴致させる以外の方法で、慕われ、懐かしがられるケース

あとは結局自分語り

あとは結局自分語りなので、大部分の方にとって価値のない話です。

皆さんの周りで、上述の1.2.3.それぞれのケースがないか、思い描いていただければよいかと思います。

1.のケース:馴致できなかった

これは母と僕自身との関係です。

母は僕が幼稚園に入ったころからずっとパートで働く生活でしたが、中高時代の弁当も含め、必ず自分の手で食事を作ってくれました。

しかし僕はいま、いわゆる「おふくろの味」というものが思い浮かびません。あえてあげるなら八宝菜ですが、それは別の意味でです(後述します)。

したがって母の料理の味に、僕が馴致されていたとは言い難いです。母の料理は、食べられなくはないですが、作ってくれたという事実以外に、心が動くものではありませんでした。ましてや懐かしく思い出される性質のものではありません。

たとえば米の飯はいつも、祖父の好みに合わせて水を多めに入れて炊くために、べちゃべちゃしていて全然おいしくありませんでした。

おかずについても、僕はしばしばおいしくないと文句を言い、「文句言うなら食うな」と叱られた記憶があります。僕が高校生のころは、大して美味くもない八宝菜の登板回数があまりに多いことで、口論になったこともあります。

僕の味覚があながち間違っていなかったことは、就職して入った独身寮で出てくる食事から知りました。ほぼ住み込みのご夫婦が作った食事は、それはそれはおいしかったからです。「あの寮は食事がうまい」と、社内でも評判になるほどでした。

このころ、帰省した際に寮の食事の話を引き合いに出して、母に「やっぱり自分の料理、おいしくなかったわ」と言ったこともあります。今となっては、ずいぶんとひどいことを言って悲しませたなと反省していますが。

その後何年かして寮を出てからも、僕はひとり暮らしの時期が長く、自分でも時々料理をするようになりました。作ったものを食べ合う関係の中では、僕はいまだに、自分が作った料理がいちばんおいしいです。

いま、両親との関係は良好です。たまにふらりと、夕飯をごちそうになりに両親宅に出かけることもあります。そこで八宝菜が出てきても、過去の遺恨はおくびにも出さず、ありがたくいただいて帰ります。

でもそれを慕っていると言われると少し違う気がしますし、母が死んだら懐かしがるか、それは今はわかりません。

2.のケース:馴致できたのに、慕われない

周りで該当する事例は思い当たりません。飛ばします。

3.のケース:料理の味に馴致させる以外の方法

これは、嫁と僕の関係です。

僕の嫁は基本的に料理を作りません。作ってせいぜい月に4、5回です。週に1回と書かないのは、嫁は気まぐれに2、3日連続で作ったかと思えば、あとは買ってきたから揚げで済ませたりとか、はたまた買い物も出られず1週間ほど眠っていたりとかするからです。

また、嫁は一度に2品以上の料理が作れません。混乱してしまうからです。「冷蔵庫にあるものを適当に使っておかずを作る」など、彼女にとってはエベレスト登頂に匹敵する難易度です。嫁が「作る」とだけ決めたときは、うちの食材の在庫を見て「何を」のメニューを提案するのは僕の仕事です。

なので僕も、ときどき2人分料理したり、あるいは自分用に、あるいは嫁用に作っておいたり、買ってきたもので済ませたり、お腹が空いてなければ特になにも口にせずにやり過ごしたりします。

だから僕は、うちの夕食を「嫁と僕の気まぐれディナー」と呼んでいます(ウソです。いま創りました)。

結婚して嫁が初めて作った料理はカレーライスでした。しかし僕が「具が少ない」と文句を付けたため、以来1度たりとも嫁がカレーライスを作ることはありません。今後もないでしょう。

また、料理は僕の方が上手いと夫婦間で意見が一致しています。

そんな関係ですから、彼女の料理の味に僕は馴致されようがありません。でもそれでいいのです。そもそも料理を作ってもらうために結婚したのではありませんから。

それでももし今日、僕が嫁と死に別れたとしたら、僕は嫁を懐かしがります。料理の味にではありません。連綿と続く、書いても公益になるかよくわからない、彼女との闘争の歴史にです。

まとめ:手作り神話を超えて

一般論でいえば、子供の食事は手作りがいいか、でき合いがいいかといえば、そりゃ手作りの方がいいとなるでしょう。しかしそれは本当に正しいのでしょうか。

  • なぜ手作りがいいの?
  • だとしても、「母親の」手作りでなくちゃならないの?
  • 手作りよりも大事なことって、ないの?

常識とされていることを疑うのは悪くありません。

家庭電化製品の普及ならびに性能向上により、数世代前と比べて家事労働が著しく省力化されたにもかかわらず、お母さん方のあいだでは、家事負担の不公平感が強くあります。

「手作り神話」としていますが、この問題は、リソース配分と、さらには家庭のあり方のデザインにまでさかのぼって再検討する問題として、立ち止まって考えてみるだけの価値はあると思います。

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