こんにちは。おっさんの映画感想文です。
上映終了を知らせる製作委員会の言いぐさの悪辣非道ぶりがあまりにひどくて憤死レベルに達しそう(誇張表現)だったので、急きょ「たたら侍」を観てきました。
問題の告知はこちら:映画『たたら侍』上映につきまして|tatara-samurai.jp(2017/06/05付)
しかしながら、それら問題点の検証・考察は後回しにして、この記事では感想だけを書きます。ムダ語りも入れて合計9000字台に至る長文となってます。
上映作品の内容にもふれますので、ネタバレ情報も含むかと思います。以後そのつもりで願います。
比較対象
比較対象として、主に次の諸作が浮かびました。管見における時代劇 and/or 殺陣・チャンバラ作品として、また映像・音響演出としての参照です。
- 七人の侍(1954)
- 隠し砦の三悪人(1958)
- スター・ウォーズの第1作(エピソード4)(日本公開1978)
- 機動戦士ガンダム(1979)
- シン・ゴジラ(2016)
- あまたのアダルトビデオ・エロ動画(1980年代後半~) ※以後「AV」と総称
参照情報
また、作品に関する基本的な情報として「たたら侍」劇場パンフレットを参照しています。
結論:ダメ映画
「たたら侍」、ダメ映画でした。この評判どおり。
「たたら侍」普通につまらなくてダメ映画(クソではなくダメ)なんですけど、監督の後援会みたいなのが日本スゴイ系のヤバい団体みたいで、映画のつまらなさそっちのけでゴシッパーとしての私がめちゃめちゃはしゃぎ出して困る。
— Ya know this is ゲロ子 (@gerocooooo) 2017年5月22日
こちらのような「ゴシッパーとしての私がめちゃめちゃはしゃぎ出して困る」方、あるいはダメさ加減の確認のためわざわざ時間(とお金)を使ってみようという奇特な趣味を持つ方以外には、おすすめしません。
95%以上(※当社比)の方には、本編上映前に流れていた「約1分でわかるたたら侍の世界」があれば事足ります。
YouTube:【公式】映画「たたら侍」×「秘密結社 鷹の爪」 ~約1分でわかるたたら侍の世界~(2017/05/02付)
むしろ本編に一切なかった「たたら吹き」製鉄技法に関するミニ解説が、とっても有益でした。いやマジでマジで。
「実はこれだけで済んだのでは?」と本編に入る直前にうすうす勘づいてしまいましたが、(やっぱり)数分レベルで済むじゃん島根県よと思いました。
橋爪遼さん情報
劇中ではなくその周辺で重要かと思われますので、情報提供しておきます。
- 鍛冶大工の息子「熊吉」役。父親役はでんでんさんです。劇中「熊」と呼ばれてました。
- 中盤、「そういえば出番まだだな~」と思った頃に登場します。
- 数え落としてなければ、登場シーンは全部で5つ。体感計測でトータルの出演時間は3分ばかり。
- セリフは各シーンに1つあったかどうか程度。
「父ちゃん!俺がやらなきゃ誰がやるんだよ!」
のセリフがあまりに味わい深かったせいか、誰も笑ってませんでした。
現場からは以上です。
ダイジェスト版
箇条書きで書いておきます。後半で詳述しますので詳細を知りたい方はそちらをどうぞ。
- 簡単に言えば、全部が「高校の文化祭」ノリ。「たたら工業高校まつり」って感じ。
- 被写体にカネかけてる感。そこはリッチ。
- ストーリー・演出は貧弱。疑問点だらけ。
- 考証の整合性は、鑑賞途中で疑問を持つのを放棄した。
- ただし文化祭ノリそのものがダメという意味ではない。
- お祭りとして楽しめばいい「クラス対抗演劇コンテスト」に、青年の主張的な「校内弁論大会」を接いだようなちぐはぐさがダメ。
ほか、ダメなところいろいろ
ダメだったところはまだあります。
- 映す側、描く側の組み立て・仕上がりがあまりに脆弱・貧弱でダメ。被写体がカネかけてそうでリッチに見えた分、余計悪目立ちしてた。
- たとえば、音楽。シーンの「気分」をもり立てる役割しか与えられていない。葬儀会場のBGMレベル。そのせいでか、まったく記憶に残らず。
- パンフレット読むといろいろこだわったみたいだけど、「こだわり」自体が目的化しているのがダメ。
- 「余計な説明をしない」が演出上のポリシーのようだったが、そもそも必要な説明が足りていない。その結果、唐突な一人語りや状況展開にしわよせが来ているのがダメ。
こだわりの一例
劇場パンフレット「制作録」より引用:
フィルム撮影にこだわり、(略)Panavisionカメラを米国から空輸、スキャニングから仕上げまでを4Kで行い、フィルムの持つパフォーマンスを最大限に生かしたのである。
だそうです。観る立場からは「知らんがな」です。
ホメ出し(よかったところ)
とはいうものの、何から何までダメではなかったので、よかった点を順不同で挙げておきます。
- 山の奥行きと緑色
- カネのかかってそうなセット・美術
- 製鉄作業と鉄の熾る色彩
- 郷土芸能(田植え歌、神楽)
- アホの子
こんなもんかなあ。これらには好感を持ちましたし、もっと観たかった、知りたかった。
もっとも、これも裏を返せば、どれも半ば添え物扱いで出番が少なすぎるという不満にもなります。さらに悪く言うなら、ほめポイントの多くは調達した被写体と機材。これらの「存在感」に甘え、他があまりにおざなりの気がしました。
アホの子に関する補足
「アホの子」に好感を持ち、そしてうっかり期待してしまい、そして期待はずれに終わった経緯だけ少し詳しく書いておきます。
「アホの子」は冒頭早々の何シーン目かに登場し、薪から燃料の炭を作る「炭焼き」として一連の「たたら」製鉄作業を支える役割を持っていることが描かれていました。集落のコミュニティに自然に組み込まれていた点に好感を覚えました。戦国のバリアフリー&インクル-ジョン。
それでうっかり、これはのちのち、山田洋次監督・脚本の怪作「馬鹿が戦車(タンク)でやって来る」(1964)の犬塚弘みたいな、ポイントポイントでアクセントになる役柄なのかなと期待を持ってしまったわけで。
けれども結果的に、それは勝手な期待でした。
「たたら侍」のアホの子はその後これといった活躍の機会もなく、確認できた登場シーンも単なる「モブキャラ」ポジションでした。あるいはただ単に、何らかの形で制作に携わった方のカメオ的出演だったのかもしれません。
この例含め、冒頭ないし前半に提示されていた伏線が後半回収される、といった事態は「たたら侍」にはほとんど発生しません。なんかあったかな。
期待するのが間違いということなんでしょうかね。
ダメ出し(ダメすぎるところ)
あとはダメな点の列挙です。具体的に詳しく言い出すと長くなりそうですから、集約して
- もろもろ貧弱・脆弱であること
- その主な要因として、得られる情報量が少なすぎること
を挙げます。
貧弱・脆弱だったところをかみ砕くと
- 状況展開の必然性が脆弱
- 時間・空間の概念が脆弱
- 人物造形が貧弱
- 映像表現が脆弱。特に音楽の役割が軽すぎ
などなどです。
1周回ってダメじゃなくなる、の巻
考証のテキトーさ加減は、1周回ってどうでもよくなりました。
「たたら侍」の物語の時代設定は16世紀後半、安土桃山時代です。劇中「信長様が本能寺で明智に」みたいなこと言ってました。ちなみに本能寺の変は天正10年、西暦換算で1582年6月21日に起こった出来事です。
舞台は16世紀後半なんですが、そこかしこで時代考証が相当にへんてこりんです。
最初にひっかかったのは、主人公の一人称「わし」です。この時代に「わし」っていうかな? と疑問になりました。帰宅後に辞書を引いたら「近世、主として女性が用いた」(広辞苑)語でした。
あと、近江へ向かうくだりで主人公がいざ乗り込んだのは、ン世紀下った江戸時代の北前船やったし。
※画像は、復元北前型弁才船「みちのく丸」|青森県 野辺地町ホームページ より
驚きのタイムトラベルに、近江の商人もびっくりです。
「たたら侍」の舞台の安土桃山時代、和船の動力源はまだまだ人力(櫓走)と風力(帆走)の「ハイブリッド」だったはずです。
参考:海からたどる「商い」の時代史 ~現代地域経済圏の礎をつくった近世海運起業家~(斎藤善之)|ミツカン 水の文化センター(2004/08/09付)
あまりにへんてこりんなので、途中で気にするのをやめました。こりゃ整合性をうんぬんする映画ではないなと、自分の側が折れた格好です。
だもんで、そのうち誰かが馬ではなくプリウスに乗って現れたり、スマホ取り出してLINEで連絡取り始めたりすんじゃねーかぐらいに思ってしまいました。仮にそうなっていても、この映画だったら私は肯定します。「こまけぇことはいいんだよ」が方針みたいなので。
唐突すぎる独白・展開
冒頭どアタマのシーンからしてそうですが、「たたら侍」は、劇中いきなり合戦や略奪や斬り合いが始まります。何回もです。そのたびごとに、毎度毎度その唐突さに戸惑いました。情報の量があまりに少なく、何がどうなった結果そんなことになっているのかが皆目見当がつかないからです。ストーリーが読み取れません。
それでもこんなことを考えながら観ていました。
たとえばAVでいきなりセックスが始まってもその唐突さに怒る人はたぶんいません。思うにそれは、AVとはセックスまたはそれに類似する行為を見せるためのコンテンツであるからです。平たく言えば「皆さんお待ちかね」です。
つまり「たたら侍」にとっては、殺陣その他のアクションシーンこそが「皆さんお待ちかね」コンテンツである。ということなんでしょうか?
そうかもしれません。
けれども映画のメッセージとしては、どうも安易な暴力・武力の行使は戒めたい風情です。わけがわからず混乱しました。どないやねん。
「唐突」演出の例をもうひとつ。誰だったか忘れましたが、ある登場人物がひとり山道を歩いていると、2人の刺客が現れ、最終的には撃退するシーンがありました。
襲った2人は何者なのか、なぜ彼は襲われなきゃならんのか、まったく理解できませんでした。
「こだわり」の自己目的化がだめ
パンフレットを読んでいると、あちこちにこだわりを持って作っていることがうかがえます。うかがえるのですが、それ以上にいろいろふわふわしすぎてました。とにかく、いろんなとこが浮ついてます。
どうも「こだわること」そのものが目的になってしまっていた感があります。そのこだわりから何か得られたんでしょうか。
説明が脆弱
劇中、ナレーションや字幕での説明が一切ありませんでした。それは構いません。
問題なのは、にもかかわらず必要な説明がまるで不足していることです。そのため、次々と疑問符の「?」が積み重なっていきます。
私には、「むらげ」が代表例です。文脈から「たたら衆」のリーダー的存在だと察せられたのですが、
- 字はどう書くのか
- 具体的にどんな役割を担うのか
- 村の長とはどういう関係、所掌分担になるのか
- 製鉄は1回あたりどれぐらいの期間続くのか(パンフには書いてました)
- 「むらげ」や「たたら衆」は製鉄のほかに農作業もするのか
などなど。
劇場パンフレットを見て、その漢字表記は「村下」だと知りました。あるいは炉に塩をまく様子などから部分的に情報は得られました。ですが、いかんせん描写が断片的すぎて、十分な理解にはまだまだ足りてません。
説明不足のしわ寄せ
なのでストーリー上の説明や進行の役割は、登場人物の唐突な独白、ないしはそれに近いセリフに押しつけられます。
たとえば、とあるシーンで誰だったかが「憎しみの連鎖を断ち切る」みたいなことを突然言い出します。
しかし思い返してみても、そこまでの劇中で「憎しみ」はあったかもしれないにせよ、そうした憎しみの「連鎖」が起こっていた、あるいはこれから起こりそうだ、そんな事態を積極的に認定できるような流れだったとは思えません。
なので「え、なんやの急に?」となってしまいます。
時間の概念が脆弱
また、時間の経過の概念が、きわめて脆弱です。
- 次のシーンへ映ったとき、前のシーンからどれぐらいの時間が経過しているのかほとんど把握できません。
1時間後のことなのか、1日後なのか、はたまた1週間後なのか、全然わかりません。
作ってる側があまり考えていない気がします。
空間概念も弱い
空間についても同様です。
中でもひどかったのが、海路で近江を目指すくだり。前述のとおり江戸時代の北前船に乗り込むのにもモヤモヤしたのですが、そこ以前にも
- そもそも乗船地点がどこなのかよくわからない
敦賀へ向かうという話だったので日本海に面したどこかなんでしょうけど、気になります。
さらには、
- その乗船地点に至るまで、主人公がどれくらいの距離をどのくらいの時間をかけて進んだか、説明も描写もない
テレビの旅番組などにありがちな演出に、前のカットでジャンプして次のカットで着地して場所が変わる「瞬間移動」がありますが、そのレベルの唐突さです。
人物像の作り込みが脆弱
人物像も不可解な点が続出します。前項と同じく、主人公の青年が近江へ向かうくだりを例に説明を続けます。
- 停泊地で、後ろになんで南蛮服の渡来人が映り込んでいるの?
いていいんですけど、何者かが想像できないので、いる必然を感じられません。そもそも場所もよく分からないし。
何よりまったく釈然としなかったのが
- 「海」に対して主人公が完全ノーリアクション
だったことです。
主人公の青年は、出雲の山深い奥地で生まれ育ったはずです。自分の目で海を見るのって、これが生まれて初めてじゃなかったんですかね。だったらなんかコメントあるだろ。
比較します。「あゝ野麦峠」(1979)では、女工として買われ、飛騨の寒村を出て信州岡谷の製糸工場へ向かう少女たちが、峠を越えて見えた水面に「海だ~!」とテンションが上がるシーンがあったように記憶しています。
実際にはそれは海ではなく、諏訪湖だったんですが。
こうしたエピソード描写を積み重ね、彼女らの人物像や生育環境、平たく言えば人となりが浮き彫りにされることで、観る側も感情移入なり共感なりがしやすくなるわけで。
くり返しますが、ひるがえって「たたら侍」の場合、海に対して主人公がノーリアクションだったのがまったく釈然としないのです。
もしかして、全然「初めての海」なんかじゃなかったってことなんでしょうか。たたら衆として自ら消費地まで産品の交易に回っていて、行動範囲が実は平均的な現代人以上に広かったとか?
ともかく散発的、断片的にしか描写されていないので、製鉄集団たる「たたら衆」の生活誌がほとんど想像できません。
ちょうど、アタック25で大事な部分のパネルが全然空いてなくて最後の「その人物の名は?」クイズがまったく答えられない感じ、とでも言えばいいんでしょうか。フラストレーションのたまるダメポイントでした。
映像表現が脆弱
AVを見ていて、騎乗位シーンのときにカメラの水平が取れてないと、すなわち画面が傾いてしまっていると、そこそこ気になるタイプです。若い頃はそうでもなかったのですが、年を経るごとに「何でこんな撮り方なんだろうか?」とどんどん気になり出してきました。
さて、「たたら侍」です。
悪い意味で印象に残ったのは、シーンの途中でカメラ位置がやたら横方向に動くことです。レールの上を移動しているんだと想像しますが、その意図がまるで理解できません。何回も何回もあるので観ていて途中で気持ち悪くなりかけました。
たとえばベタな例ですが、刀を抜いた二人が対峙していて、互いに間合いを計ってほとんど動かないようなシーンなんかであれば、両者の周囲をじりじりとカメラが移動する、みたいな演出はまだ理解できます。
けれども大半で、なんでここでカメラが動かなきゃいけないか、その必然を感じなかった。これも「?」の嵐の一要素です。
なお辛うじてひねり出したその意図は「そうしないと間が持たないから」です。
OLのインスタかよと
さらに言えば、特に「モノ撮り」にまるで工夫が感じられません。無造作すぎます。
とりわけ「もうちょっと何とかならなかったんかいな」と思ったのは、たたら炉で熱され、赤く灼けた鋼?が液状となって流れ出てくる場面。「たたら吹き」集団作業のクライマックスであるはずですが、その緊張感、高揚感が画面からまったく伝わってきません。
正直「OLがSNSにアップしたパンケーキかよ」と思ってしまいました。
※イメージ
いや、ちょっと気の利いたOLが何か仕掛けてきたら、パンケーキ画像にも太刀打ちできないんじゃないかな。それほどのだるだるさ加減。
音楽の耐えられない軽さ
本編にはところどころオーケストラで劇伴が付いてました。オリジナル音楽っぽかったです。それはいいのだけれど、その役割があまりに軽かった。結局のところ、場面場面の「気分」をもり立てるだけの役しか与えられていません。もはや憤りを覚えるレベルです。
事実、既にどんな音楽だったかまるで記憶に残っていません。
あるいはまた、分不相応に気取った居酒屋かラーメン屋か焼き鳥店かでかかっている小じゃれたジャズのような、はたまたカフェでかかっているJ-POPのボサノヴァカバーのような、店内BGMレベルの軽さです。
同じような音楽の使われかたをしている場所を思い出しました。業者の手がける告別式会場です。そこでの音楽は、同じくその場の「気分」をもり立てるだけの役しか与えられていません。
ここで「よい例」と比較します。
店内BGMみたいな「小じゃれたジャズ」でも、この曲を流した「シン・ゴジラ」での演出は憎たらしいほど上手かったです。
Early morning from Tokyo (short)/報道1
鷺巣詩郎 伊福部昭
¥250
たった一度でしっかり記憶に残ってしまっただけでなく、観ていて「朝のFMラジオ番組で流れるBGM」とまでイメージできました。J-WAVEあたり。合ってるかは知らん。
とまあそんな具合に、いち音楽好きとして、音楽の力なめんなよって思ってしまったのでした。
謎の「大トリ」起用
そしてエンディングに主題歌《天音》のご登場です。そもそも主題歌があること自体、私は知りませんでした。
YouTube:EXILE ATSUSHI & 久石 譲 / 【歌詞】天音|avex(2017/05/08付)
贅沢にも久石譲さん作曲みたいです。
なので、なんやテーマ曲あるんかいな。しかも聞いてみたらこれ、ちゃんとしてるし。久石さんつながりで言うたら、「菊次郎の夏」(1999)の《Summer》みたく最初に流すべきやつですやん。それがなんでよりによって最後の最後やねんな。アホかいな。
そんな具合に思ってしまいました。
歌っていたATSUSHIさんはもちろん、何より久石譲さんのむだ遣いです。何か契約上の制約でもかけられているのかと疑ってしまうほど、編集おかしい。橋爪遼さんの出演シーンを切るか切らないか以前におかしい。
ミニ講座:フォアシャドーイング
念のため、「菊次郎の夏」の《Summer》ってこんな曲です。既に記憶があいまいですが、最初に出てきたと思う。
Summer
久石 譲
¥250
ともかく音楽その他を用いて、早い段階で作品のテーマと世界観を(暗黙的にでも)提示するわけです。こういうやり口を、その筋の言葉で「フォアシャドーイング(foreshadowing)」と言います。
あるいは「アナと雪の女王」(日本公開2014)冒頭の労働歌もまた、同じパターン。
FROZEN’S OPENING SONG PREDICTS THE WHOLE MOVIE|OH MY DISNEY(2014/12/19付?)より
大事なのでもう1回言っときます。橋爪さん関係なく、編集おかしい。
まだまだ足りませんが、これぐらいにしておきます。
まとめ:だるだる映画
「たたら侍」、若干のよかった点も挙げられるものの、私にはだるだるに弛緩したふわふわなストーリーと映像表現がダメでした。
- 通説ガン無視の「ぼくのかんがえたさいきょうのさむらい」像も
- その「さむらい」像への道のりも
どちらも陳腐のみならずぺらっぺらに薄っぺらく、つまらなかった。受け入れがたかったです。こんな侍いらない。侍を除いて「たたら」の分だけ、もう少し詳しく知りたい。
ということで、「侍」部分を出雲鋼から鍛造した名刀でばっさり斬り捨て、「たたら」だけに特化したコンテンツを見られたらいいです。「ETV特集」向きかな。
あたかも「高校の文化祭」ノリ
鑑賞後のこの感じ、なんだろう。過去の人生経験の中から似たものを探してみました。
思い当たるのがありました。「高校の文化祭」です。
以下、おっさんの昔語りです。細部の記憶は違っていると思います。
面倒ならセクションまるごと読み飛ばして大丈夫です。面倒でないなら近くの中高年の方に、話が古すぎてわからない部分を聞きながら読み進め願います。
僕の通った高校の文化祭では、3年生はクラス対抗で演劇をやるのが通例でした。持ち時間は15分ぐらいでしたか。小説や物語のダイジェストをやるのが定番でした。で、僕のいた組は芥川龍之介の「杜子春」をやりました。なんでそう決まったのか全く覚えていませんが、タイトルロールに女子の中村さんを起用するという、西遊記の夏目雅子スタイルで挑んだのでした。
で、僕は裏方としてギター小僧の宇野君と2人で「音響」を担当しました。単に「好きな曲をかける」だけでしたが。地獄のくだりだったかな、エディー・ヴァン・ヘイレンのぎ~んぎ~んぎゅい~ん(←アーム奏法)とか、たらりたらりぱらりらりらりらりらら(←ライトハンド奏法)とか鳴らしたように記憶しています。
ほかには谷崎潤一郎の「春琴抄」を上演したクラスもありました。男子人気の高かった卓球部のエビちゃんが春琴役でした。振り袖で着飾ったエビちゃんが舞台に現れた瞬間、客席がどよめいたのを覚えています。彼女が健在なら今ごろきっと片山さつき議員みたいになっているかと思います。
これ以上は記憶ないです。
「たたら侍」=「ヤンキー高校文化祭」説
話を戻すと、「たたら侍」ってそんな「高校の文化祭」ノリに近いよなぁと思うのでした。
さながら鑪(たたら)工業高校ってとこですか、ヤンキー色強めで。
あーでもないこーでもないと企画していろいろこだわってみんなでがんばって作り上げて、いい気持ちになる。内輪では盛り上がるし、部外者でもそこに共感できる人ならアリなんでしょうが、「伝わらないこだわり」や「がんばり」にほとんど価値を感じない私には「知らんやん」で終わりです。
文化祭ノリなら、歌&ダンス路線では?
付言しておきます。文化祭ノリの映画自体を否定しません。文化祭ノリを極めた秀作はあるからです。
私の知る中では「パリの恋人」(1957)(原題:Funny Face)がそうです。
音楽・ダンス・衣裳・構図などなど、どれもいちいちキマっててカッコいい。ストーリーはどうにも安直な恋物語としか言いようがないし、30歳違いのアステアとヘップバーンでは、さながら出会い系バーあたりでつながった年の差カップルに見えて違うニュアンスも漂うんですが、「ボンジュール、パリ!」のひと叫びでその程度の難点は吹き飛びます。
同様に、EXILEまわりの人たちって歌に合わせての群舞がコアコンピタンスなんだと思ってたんですが、違うんでしょうか。やってる側はもう飽き飽きしちゃってるんですかね。
「たたら侍」には、どこか木に竹を接いだようなちぐはぐさがありました。いわば、文化祭ノリにクソまじめな弁論大会的メッセージを接いだようなちぐはぐさです。ダメです。イケてません。
時代劇で新機軸を目指したかったのかもしれませんが、自分たちの強みをわざわざ殺し、既存のファン層が喜ぶ要素をないがしろにしすぎていて、相当無謀な無理のある企画に思えました。
見て取れる数々の観察事実から、LDHが迷走していることがうかがえます。
長くなりました。そんなところです。
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