ピダハンの区切らない話【読書メモ】

こんにちは。

複数のルートから、「アマゾンの奥地に暮らす少数民族」「400人を割るという彼ら」「ピダハンの言語とユニークな認知世界を描きだす科学ノンフィクション」(裏表紙より)の噂を聞いて、こちらの本を借りて読みました。

図書館に返す前に、抜粋した内容をメモしておきます。

要約:Executive Summary

区切らないピダハン

たとえば数であったり色の名前であったり、ピダハンの文化には、多くの文化で当たり前のように持っている概念がありません。よって、それらを表す言葉もありません。

彼らにとって世界はそこで区切られておらず、連続しているからだろうなと思いました。

正しい問い方は「なぜこしらえた?」

彼らに「ない」あれこれは、ある時期に失ったのではなく、きっとそこに暮らし始めた時から「ない」はずです。

ですから問い方としては、「なぜ彼らにはないのか?」ではなく

  • なぜわれわれにはあるのか?
  • なぜこしらえたのか?

と問いを立てるのがたぶん正当です。

ピダハンの言語・概略

  • 音素は11ほど
  • 声調言語
  • 文章の基本構造はSOV
  • 表現はおおまかに、次のどれか
    • 情報を求めるもの(質問)
    • 新しい情報を明言するもの(宣言)
    • あるいは命令

ピダハンの「ないもの」リスト

ざっと登場した順のまま並べます。

  • あいさつ
  • 比較級
  • 装飾、儀式
  • 昼と夜の区別
  • 将来の心配
  • 敵意
  • 複雑な親族名称
  • 子供
  • 右と左

あと言語的には、再帰(リカージョン)、関係節、受動態など。

棒きれをもう一本拾って、二本同時に落としてみた。
コーオイーは、「ィイー ホイヒオ イッ ビギー カーオビーイ」と言った。「二本の枝が落ちる地面に」というような意味だろうとそのときは思った。実際には「少し量の多い(hoihio ホイヒオ)枝が落ちる地面に」であることを知ったのは後のことだ。(p.16)

注意深く観察してみると、ピダハンが指であれ体のどこであれ、あるいは棒きれなど自分の体以外のものであれ、何かを使って数えたり計算したりという光景を目にすることがなかった。(p.167)

一九八〇年、ピダハンに頼まれてケレンとわたしは夜、算数と字の授業をするようになった。(略)八ヵ月の間、ピダハンはこちらから声をかけずとも毎日欠かさず集まってきた(略)けれども、最終的にみんな、自分たちにこの科目を身につけるのは無理だと判断し、授業は終わりを告げた。八ヵ月かけても、ピダハンはひとりとして一〇まで数えられるようにならなかった。誰ひとり、三足す一を、それどころか一足す一も計算できるようにならなかった(p.168)

著者の見解です。

数とは、直接性を越えて事物を一般化するカテゴリーであり、使うことによってさらなる一般化をもたらし、多くの場合体験の直接性を損なうものだ。(p.274)

あいさつ

ピダハン語で真っ先に興味を引かれたのは、言語学で言う「交感的言語使用」が見られないことだった。(p.22)

ピダハンの村に誰かを連れていこうとすると、決まって、「ありがとう」や「すみません」と言ったあいさつの言葉を教えてくれと頼まれる。ピダハンはそういう類の言葉は交わさないのだと説明すると、さも不審そうに見返されてしまうのである。(pp.22-23)

比較級

ピダハン語には比較級がないので、「これは大きい、あれはもっと大きい」というような表現が見つからない。(p.36)

色を表す単語もなく、赤、緑、青などなどと一語で言えば簡単なところを、たとえば赤だったら「あれは血みたいだ」とか、緑だったら「まだ熟していない」というような説明的な表現になる。(p.36)

日本語も、古来あったのは後ろに「-い」とつなげられる、赤・青・白・黒の4色だけだったと聞きます。

あとの色は基本的に喩えが由来ですし、元来の4色にしても明暗×色調の4区画を述べたのだろうなと思っています。

装飾、儀式

ピダハンは羽毛飾りをつけないし、手の込んだ儀式もしない。ボディペインティングもせず、アマゾンのほかの部族のようにはっきりと目に見える形で文化を誇示しない。(p.101)

わたしも不思議に思ったが、儀式というものにおよそ欠けているのである。(略)明らかに儀式と呼べる事例は見つけられない。(p.117)

誰かが死ぬと、死んだ人物は埋葬される。(略)死者の埋葬には儀式が付きものだが、ピダハンの場合、儀式という名で呼べそうな行動はほとんどともなわない。(p.117)

性と婚姻にも儀式と呼べるような行為は見当たらない。(p.118)

婚姻は同棲することで認知される。(p.119)

歌と踊りはたいてい満月の夜に催され、その間は結婚していない者同士はもとより、別の相手と結婚している者同士でもかなり奔放に性交する。少し羽目をはずしたようなものから深刻なものまで、暴力沙汰も時々起こる(略)。だが暴力が黙認されることはないし、あったとしても非常に稀だ。(p.120)

直接の経験でないと無価値

ピダハンに儀式が見受けられないのは、経験の直接性を重んじる原則で説明できるのではないだろうか。(p.121)

直接経験していないことには価値がないという文化です。神や創世神話がないことも、ここに由来すると考えられます。

何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、(略)実際に経験した人物、あるいは実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。だからこそ口承伝承や儀式の入る余地がないわけだ。(p.121)

昼と夜の区別

時間帯によって獲れる魚の種類が違うので、ピダハンの男たちはいつなんどきでも漁に出かけることがある。つまり、見える範囲が違うという事を覗いて、昼と夜の区別がほとんどないということだ。(p.111)

将来の心配

ひとつのパターンが見えてくる。ピダハンには食品を保存する方法がなく、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。将来を気に病んだりしないことが文化的価値であるようだ。だからといって怠惰なのではない。ピダハンはじつによく働くからだ。(p.113)

将来よりも現在を大切にするため、ピダハンは何をするにも、最低限必要とされる以上のエネルギーをひとつことに注いだりしない。(p.113)

敵意

ピダハンは穏やかだ。異文化と接したばかりのとき、ほかの社会ではまま感じた敵意が、わたしにも、誰かほかのよそ者に対しても、向けられるのを感じたことがない。また、集団の内部でも、敵意が交わされるのをほとんど見ない。もちろんいかなる社会にも例外はあるが、ピダハンと過ごした長い歳月を通じてこの印象は変わらない。ピダハンは穏やかで平和的な人々だ。(p.123)

親族名称

親族を表す言葉はピダハンには次に挙げる数語しかない。世界でも稀に見るあっさりした親戚関係だ。(p.124)

【pp.124-125より抜粋】

  • baixi(マイーイ)――親、親の親、さらに一時的ないし恒久的に従属を示したい相手を指す。
  • xahaigi(アハイギー)――同胞(男女とも)。
  • hoagi(ホアギー)またはhoisai(ホイーサイ)――息子。hoagiは「来る」という動詞、hoisaiは「来た者」の意。
  • kai(カイ)――娘。

もうひとつ、piihi(ピイイヒー)という単語もあり、「ふた親のうち少なくともひとりが死んでいる子ども」や「継子」「お気に入りの子」など広い意味に使われる。
これで全部だ。(pp.124-125)

子供

わたしはまず、見たかぎりでピダハンが赤ちゃん言葉で子どもたちに話しかけないことから考えはじめた。ピダハンの社会では子どもも一個の人間であり、成人した大人と同等に尊重される価値がある。子どもたちは優しく世話したり特別に守ってやったりしなければならない対象とはみなされない。子どもたちも公平に扱われ、体の大きさや体力に合わせて食事の分量などは変わるけれども、基本的には能力において大人と対等と考えられている。(p.128)

ピダハンは子どもも対等な社会の一員と考えているが、それはおとなには許されているのに子どもはできないこと、あるいは子どもには許されるのにおとなには禁じられることがないということを意味する。子どもは(略)年齢に基づいた差別待遇などはどこにもない。(p.139)

わたしの注意を引いたのは、いたいけな三つの男の子が手巻きの太いたばこをふかしていたことだった。巻いてやったのは父親に違いない。ノートの切れ端で巻いた、強くて辛いたばこだ。(pp.139-140)

もしおとなが喫煙の「リスク」を負ってもいいのなら、子どもだっていいはずだ。(p.140)

ピダハンは概してアルコールに強くない。しかし六歳の子どもがろれつがまわらなくなって千鳥足でふらついているのを見るのは、じつに珍奇な経験だった。だがピダハンにすれば、人生の困難はみんながいっしょに分かち合うのだから、人生の楽しみも分け合って当然なのだ。(p.140)

右と左

その日の狩りの間、方向の支持は川(上流、下流、川に向かって)かジャングル(ジャングルのなかへ)を基点に出されることに気がついた。ピダハンには川がどこにあるかわかっている(わたしにはどちらがどちらかまったくわからなかった)。方向を知ろうとするとき、彼らは全員、わたしたちがやるように右手、左手など自分の体を使うのではなく、地形を用いるようだ。(p.301)

こういうやり方をエクセントリック・オリエンテーションと呼ぶ者もいる。(p.302)

ピダハンのちょっといい話

それ、なんかいいなと思った「ちょっといい話」をメモしておきます。

ピダハンは折にふれて名前を変える。たいていはジャングルで会った精霊と自分の名前を交換するのだ。(pp.19-20)

感謝の気持ちはあとから、返礼の品とか荷物運びの手伝いといった親切な行為の形で示される。また、人を傷つけたり怒らせたりした場合も同じだ。(略)後悔の気持ちや罪悪感を表すのは、言葉ではなく行動だ。(p.23)

「ピダハンはおまえを怒っていない」(ピダハンはよく、自分ひとりの意見であっても集団の見解であるかのような言い方をする)。(pp.97-98)

個の境界もあいまいであることがうかがえます。

ピダハンにとってはネックレスの美しさはおまけで、第一の目的は毎日のように見ている悪霊を祓うことなのだ。(p.107)

初めて都会に行ったピダハンは、西洋の食習慣、特に一日三食食べる習慣を知って例外なく驚く。(p.110-111)

ピダハンの「笑い」

連日男たちは取り立てて何もせず、熾(おき)になりかけた焚火の周りに座って、しゃべり、笑い、放屁し、焼き芋をつついている。時折この日課に性器の引っ張り合いが加わる。そしてこんな気の利いた行為を思いついたのは世界じゅうで自分たちだけだとでも言わんばかりに笑いだすのだ。(p.101)

笑いの沸点が低すぎるのは気に入りませんが、そのほかはあこがれます。

ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。風雨で小屋が吹き飛ばされると、当の持ち主が誰よりも大きな声で笑う。魚がたくさん獲れても笑い、全然獲れなくても笑う。腹一杯でも笑い、空腹でも笑う。

このみなぎる幸福感というものは説明するのが難しいのだが、わたしが思うにピダハンは、環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて、何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。(略)ピダハンは何であれ上手に対処することができるのだ。(p.122)

さすがに100%のコピーは厳しいですが、真似していいところは多々あるように思いました。

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