ほうれんそう(報・連・相)の「原典」にあたってみた―「報連相」をたずねて(1)

こんにちは。

報告・連絡・相談の頭文字を取った「ほうれんそう(報・連・相)」という言葉があります。

その報連相について、出典マニアによる調査報告です。

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ここまでのあらすじ

先日、スクーのオンライン講義を初めて受けました。受講したのはこちらの「前編」です。

ひとつ前の記事で、その経緯を少しばかり詳しく書いています。

自由研究:報・連・相の「もともと」をたずねて

本題です。

講師の木下斉(@shoutengai)さんは、質疑応答のなかでこんなふうに言われていました。

もともと「報連相」は、上司が部下にいかにものを伝えるかというために言われるようになったって、ネットで調べたらありました。ホントかウソかわかんないですけど。

僕は出典マニアなので、それがホントかウソかを調べてみました。次回講義までのレポート課題「報連相に依存しない情報共有の工夫」も出ているにもかかわらず、そっちはガン無視です。

目下、報・連・相とは一切無縁な「ほうれんそうフリー」の逆ベジタリアンな生活を送っています。あえて報連相に近いものをあげるなら、「ブログを書く」がそうでしょうか。誰からの指示も受けていないものの、報告をしていますから。その程度なので、誰かとの情報共有を工夫する動機づけもさして持ち合わせておりません。

そんなわけで、求められているレポート課題をシカトして、自由すぎる研究テーマに心血を注ぐという、困ったちゃんの最右翼的な路線をひた走っている次第です。

結論:間違い。ただし「ハーフハーフ」

問い

ここで究明する問題を記述しますと

  • もともと「報連相」とは、上司が部下にいかにものを伝えるか、というために言われるようになったのか?

です。

答え

先に結論を述べます。答えは「否」です。「もともと」をたずねた僕の感覚からは、

  • 「報連相」は、上司が部下にいかにものを伝えるかというために言われるようになったわけではない。

と言えます。当初から現在言われている「報連相」の意味に近いです。

全くのウソでもない

しかし全くのウソかというと、それも違います。「上司から部下へ」についても、ほうれんそうの「草分け」=提唱者はそこそこ強調しているからです。

ですから、誠実に答えるなら「半分ウソで、半分ホント」です。浅田真央さんの言葉を借りると、ハーフハーフです。

ついでに言うと、もしも、木下さんが見た「ネットにあった」情報と、僕の見た先が同じであるのなら、そこで特に「上司から部下へ」の流れを強調して書いてあるようにも読めませんでした。

野菜のホウレンソウならお湯であっという間に茹で上がってしまうというのに、なんとも煮え切らない答えですが、調べた結果がそうなのでしかたありません。

調査過程

以下、調査過程に沿って、順に詳しく説明していきます。

1.「ネットで調べたらあった記事」について

木下さんが「ネットで調べたらあった」と言われたのは、恐らくはこちらの記事を指してだろうと思われます。

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報連相の始まり

記事では「だそうです」という伝聞形ながら、「報連相の始まり」が紹介されていました。引用します。

報・連・相とは1982年に山種証券社長(現SMBCフレンド証券)だった山崎富治氏が風呂につかっている時に閃き、社内に「ほうれんそう運動」として広めたのが始まりだそうです。

この情報を元に他のサイトもいくつかあたってみた感触としては、ここにあるとおり、1982年、山種証券での「ほうれんそう運動」が始まり、として問題なさそうです。完全に裏を取り切れてはいませんが、山崎さんおよび山種証券の単なる自称でもないように思えます。

なお蛇足ながら、山崎社長が思いついた瞬間は「風呂につかっている時」以外に、もうひとつの説がありました。詳しくは別の記事にします。

「原典」としての著作

報・連・相というと部下が上司に対して行うものと理解されている風潮がありますが、山崎さんの著書、ほうれんそうが会社を強くする―報告・連絡・相談の経営学を読むとそうではなさそうです。

「山崎さんの著書」というのはこれですね。

初版発行は1986年です。上のブログパーツでは刊行年が「1989」とありますが、こちらは増補改訂版の出た年です。

「上司から部下に」がメインでもない

「日系パワハラ」では同書の記述が多く引用されています。引用部含めて通して読んでみても、特段「上司から部下に」を強調している書きぶりでもありません。

たとえば ※下線は引用者

風通しの良い会社を作る手段として”ほうれんそう”という標語を掲げたのであって、”ほうれんそう”を徹底させるのが目的ではなかったのです。

といった具合です。あとも大差ないです。

同じ本を僕も読んでみましたが、報連相がもともと「上司が部下にいかにものを伝えるかというためのもの」とは思えませんでした。

2.「原典」を手に入れるまで

山崎富治さんが山種証券社長当時に著した『ほうれんそうが会社を強くする―報告・連絡・相談の経営学』(1986, 1989)ですが、残念ながら現在新刊では入手できません。

収蔵されていた図書館を見つけて借りてきましたが、読んでいるうちにいろいろと突っ込んで分析したいことが出てきたので、古本を買って手元に置いておくことにしました。しかしながら、Amazonでの中古品価格はべらぼうに高い。

他にないかと探してみたら、日本の古本屋(kosho.or.jp)に1986年版の方だけ在庫があったので、さっそく取り寄せました。

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尼崎市のはた書店さんありがとうございます。値段もAmazon価格より格段にリーズナブルだったうえ、想像以上にコンディションがいいので喜んでいます。

3.山崎社長の問題意識

『ほうれんそうが会社を強くする』(山崎富治, 1986)から、「ほうれんそう運動」の誕生に至る背景について述べている部分をいくつか拾い書きしていきます。

組織がちょっと大きくなったとたん、どうも社内のタテ・ヨコのつながりというか、情報の流れというか、そうしたことが、ぎくしゃくしはじめたきらいがある。(pp.16-17)

ちなみに同社の有価証券報告書によると、1979年に1000名を越えた山種証券の社員数は、1981年には1102名(男684+女418)となっていました(9月末時点・歩合制の外務員を除く)。

続くくだりで書かれていたエピソードをかいつまんで紹介すると、そのころ、中途採用した非常に優秀な社員が、入社後わずか2年で他社に移ってしまいます。その原因を探ってみると「入社2年では住宅資金の貸付が受けられない」という社内規定のためでした。中途だから融通を利かせて便宜を図ることもできない相談ではなかったのに、情報の流れが滞っていたせいでそのチャンスすら得られず、貴重な人材を失ってしまったと、山崎さんは悔やんでいます。

こんなことがくり返されるようだと、私は、会社が大きくなったメリットより、下手をすればマイナスのほうが大きくなってしまうと思った。(略)もちろん、会社は儲けなければ、企業ではない。しかし、いくら儲けても、楽しくなければ、意味がないのではないかというのが、私の信条である。(p.18)

4.「報連相」の“原義”

「原典」とも言える同書ではありますが「報連相」が厳密に定義されているわけではありません。ただ、「報・連・相」のそれぞれを著者の山崎富治さんがどういう意味合いでとらえていたか、そこをうかがい知れる記述はあります。

2か所から引用します。

「情報の流れる方向」の比喩

※強調は原文傍点、下線は引用者

もっと、上下の報告がきびきびと行われないものか、左右の連絡がスムーズに取れないものか、上下、左右にこだわらない腹を割った相談がなされないものかと、(p.19)

情報の流れる方向を、組織図に重ね合わせて述べるなら、こう言えそうです。

  • 「報告」とは、縦の流れ
  • 「連絡」とは、横断的な横の流れ
  • 「相談」とは、組織に制約されない縦横無尽な流れ

人間の体にたとえると

もうひとつあります。こちらの方が一段とわかりやすいです。 ※下線は引用者

〝ほうれんそう〟というのは、人間の体にたとえると、目、口、耳にあたるのではないだろうか。書類にして下から上に出される「報告」は目、横の「連絡」は口頭で伝えることが多いから口、人の話を聞く「相談」は耳ということもいえる。(p.27)

続くくだりで、人体で言えば目・口・耳である「報連相」のすべてを働かせないと、相手と心を通じ合わせることはできない。と、そのようなことを述べられています。

ここでひとつ注目すべきは、相談については「聞く」と、受ける側に向けた表現となっている点です。人の体にたとえた語呂合わせという側面も多分にあるでしょうが、明らかに「上司から部下へ」を念頭に置いていたとも言えましょう。

用法の揺らぎもありそう

さらには、読み進めていくだけで、登場する「ほうれんそう」の用法に揺らぎが観察できます。この〝ほうれんそう〟って、いったいどういう意味での使い方なんだろうか? と時々思うことがありました。このあたり、もう少し突っ込んで分析したいです。ここでは、「揺らいでいる」というその1点のみに触れておきます

まとめ

「報連相」の出典をたずねることで、その「本来」を確認することができました。

先述の「日系パワハラ」の記事が指摘するとおり、当世の報連相は「部下から上司へ」の流れだけが強調されているきらいがあります。しかし、原典はそうではありませんでした。

伝言ゲームの常と言えばそれまでですが、「原典」とも言える書籍にあたってみると、「報連相」の由来にせよその解釈にせよ、わずかずつながら情報の伝達過程でずれが生まれているように思えます。

このように報連相の内実が変質してしまったのは、上司の側が自分の都合のいいように、代々にわたって営々とねじ曲げ続けてきた成果だとも言えましょう。

反対に、部下の側も「ホウレンソウしても、それを聞く耳持ってねぇだろうが」と上司相手に思いはしても、「部下から上司」をもっぱらとする(歪んだ形式の)報連相の枠組み自体をさほど疑うわけでもなく、そういうものと受け取ってきた、そんな側面もありそうです。

簡単に他人を信用しないことは正直しんどいですが、それ以上に勉強になります。

現場からはひとまず以上です。

コメント

  1. yamada より:

    ツーイートするボタンが正常に動作しませんでした。念のため報告いたします。

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