「B面」としてのシン・ゴジラ

5年寝かせておいたネタを、今の今になってまとめました。

この記事で言いたいこと

映画「シン・ゴジラ」のテーマは、「B面の取り扱い方」である。

そうとらえ直してみると、さらに楽しめます。

シン・ゴジラが従来の3倍(当社比)面白くなります。ぜひ、お試しください。

A面・B面とは

「A面」「B面」は田房永子さんによる造語です。初出を追えていませんが、遅くとも「シン・ゴジラ」公開当時の2016年には使われていました。

田房さんの近著『なぜ親はうるさいのか』(2021)では、A面を「人間がみんなで生きていくためのシステム、社会通念」、B面を「ゆるぎないもの.自然の摂理 さからえないもの.生理現象」とされています。(pp.064-065)

2ページにわたって、まるでマンダラのようにいろんなA面とB面が書き込まれていました。

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※画像は、A面B面についての解説ページ|田房永子(Tabusa Eiko)|note(2022/01/18付) より

最終的に人間の手でどうにかするもの/どうにもならないもの、といった「そのへんの区分」である点をおさえておけば、各自好きなイメージでとらえればよいかと思います。

私がひと言で言うならば、A面は「規律」、B面は「混沌」でしょうか。

ということで「B面」は「A面」とセットで対比されるワードです。

ここまでふまえて、本題です。

spoiler alert:ネタバレ注意

もし、シン・ゴジラを未体験のまま当記事にたどり着いた珍しい方がいらしたら、読み進める前に一度鑑賞をおすすめします(Amazon prime video など)。

うっかり最後まで読んでしまったら「当記事の内容を知らずに観る」経験が一生できません。

ということで、ここからネタバレ前提で進めます。

【ダイジェスト】B面としての巨大不明生物=ゴジラ

劇中で「巨大不明生物」、のちに「ゴジラ」と称される存在を「B面」の表象ととらえると、「シン・ゴジラ」全体の視界がぐっと変わってきます。

以下のテキストで、

  • 「B面」とは、ゴジラを、
  • 「A面」とは、B面と対比されるまたは対峙するいろんな存在を

指します。

ストーリーライン

「シン・ゴジラ」の本編全体は、3つのパートに大別できます。A面に寄った視点でストーリーを要約すると、こんなところでしょうか。

序盤=パート1

  • 日常に起こった異変
  • 異変による混乱

中盤=パート2

  • 間違った対処
  • 大惨事

終盤=パート3

  • 対策の練り直し
  • なんとか最悪は回避

順に詳しく述べます。

序盤

「シン・ゴジラ」前半3分の1では、A面の日常に起こった異変と、異変による混乱が描かれます。

ただし「異変」「混乱」も、A面基準でのもの言いです。B面はただ「ある」のです。それがB面です。

A面の住人たちが、B面をどう取り扱ったかを追っていきましょう。

まず、否認します。いわく

「バカバカしい」(シーン#22)
「そんな生物(もの)がいるわけないだろ」(シーン#26)

中継映像によってB面の存在が否定できなくなってもまだ、A面の住人はB面のことを軽く見ます。いわく

「上陸は万が一にもあり得ない」(シーン#44)
「上陸行動は常識として考えられない」(シーン#44)

平たく言えば、ナメてるんですね。

B面のことを知っていれば、仮に知らずともあるがままを虚心に見つめれば、その考えがでたらめだとすぐわかるだろうに。けれどA面世界にどっぷり浸っていると、認知も判断も歪んでしまうわけです。怖いですね。

はたしてA面世界にB面が侵入するまでが、冒頭のだいたい15分間です。

余談ですが、「え、蒲田に?」(シーン#46)まで劇伴(音楽)が一切ないのもシン・ゴジラの特徴です。

Persecution of the masses (1172)/上陸
鷺巣詩郎 伊福部昭
¥255

「A面に迷い込んだB面」としての蒲田くん(通称)

先ほど「侵入」と書きました。実はこれも、A面からのもの言いです。

B面から言えば「迷い込んだ」だけです。

A面世界に迷い込んだB面にとっての不幸は、A面基準であまりに巨大で不明だったことです。そんな意図は一切ないのに、A面世界を混乱させ、少なからぬ損害を与えました。

もしB面が童謡の《いぬのおまわりさん》に出てくる「まいごのこねこちゃん」サイズだったなら、まだ平和裏に事態の収拾を図れたかもしれないのに。といっても詮ない話ですし、だいいち映画的に成立しないでしょうけど。

さて、そんなこんなでA面世界は混乱させられ、B面自身もなにがなんだかわからないうちに(わかってりゃ定義上B面ではないですが)、いったんA面から離れます。そこまでがパート1です。

中盤

A面住人たちがB面の取り扱いを間違えて大惨事に至るのが、パート2です。中盤3分の1にあたります。

巨災対も始動してはいたものの、準備の整わないうちに再びB面が出現しました。しかもパワーアップして。

A面たちは侵入したB面を制圧しにかかります。しかしA面的な方法論はまるで通用しませんでした。タバ作戦のことです。

「通用しなかった」現実にA面政府はうろたえたあげく、次は米軍という名の「権威」に頼ります。B面には通用しないとわかったのに別のアプローチをとらず、さらに強烈かつ強硬な形で通用しない手段をぶつけた格好です。浅はかですね。

その結果、「内閣総辞職ビーム」をはじめとして、A面の象徴である東京都心に大惨事をもたらしました。

東京駅で活動を停止したゴジラ。それは、シンボリックなA面の中心地に居座って「ね。抑圧してかかってもロクなことにならないって、これでよーくわかったでしょ。さあ、どうしますか?」と問うB面の姿です。

終盤

そこからラストまでの終盤3分の1が、パート3です。

「内閣総辞職ビーム」その他によって、A面に浸りきっていた者たちは退場しました。仕切り直しです。A面住人たちは一度B面と距離を取って自身の安全を保ちつつ、B面対策としての「矢口プラン」を練り直し、精細化します。

巨災対メンバーが中心になって「B面ってなんなの?」をよーく調べて「どうしたらいいの?」を割り出してゆくんですね。その過程で、A面スタイルの極致とも言える「熱核攻撃」案を退けてもいます。

はたして矢口プランを実装したヤシオリ作戦によって、B面をどうにか静められました。

作戦中の「ゴジラが熱焔を放出不可となるまで吐かせ続けろ」(シーン#331)ってセリフが、すごくシンボリックです。B面のこと、よく勉強したんだなって感じさせます。

中盤での説明を飛ばしましたが、巨災対の面々とは「そもそも出世に無縁な霞が関のはぐれ者、一匹狼(以下略)」(シーン#113)であり、どちらかと言えばA面世界になじめていない人たちの集まりです。しかし巨災対が立案した作戦を実行に移し成功に導いたのは、ほかならぬA面世界を形づくる組織的規律です。その点が、両義的かつ示唆に富みます。

さて、作戦は成功に終わったとは言え、B面は一時的に沈黙しただけです。いわく「事態の収束にはまだ、ほど遠い状況」(シーン#369)ですね。ラストシーンの描写もそれを匂わせていました。

B面はいずれ再び始動します。そのときあなたは、B面と「ウィズB面」な付き合いができますか?

B面としてのシン・ゴジラは、そんなメッセージを投げかけてもいます。

『ゴジラ』 (1954) メインタイトル (M1)
伊福部昭
¥255

あとがき

当記事で述べたアイデアは、当時の田房さんの「シン・ゴジラ」感想文から形になりました。

残念ながら現在その記事は消えていますが、読んで

と記事の感想をツイートしたら、こんな反応をもらえました。

何かのヒントになったのならうれしいことです。

謝辞

そもそもの発端は、熱心に口説き続けた結果鑑賞に付き合ってくれた嫁が、中盤、米軍による攻撃のくだりでこぼした「かわいそうだよ。ゴジラ歩いてるだけなのに」でした。驚きました。

「なんでそんなことされないといけないの」「痛かった」って、まさかのゴジラ目線!

映画館出てからは、「これは、ゴジラに感情移入するための映画ですよ」「逆に、ゴジラ以外の何に感情移入できるっていうんですか」とも言ってました。

嫁こそが、私をB面世界に引きずり込んだ張本人であり、逆にいえば、ウィズB面のあり方を考えさせた功労者でもあります。

といった具合に、A面B面どちら寄りの視点に立つかで、同じ事態へのもの言いもまるで変わるわけです。こんなこと、当時の私は全然わからなかった。ありがとう嫁。

そんなところです。

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