日本語「ない」の活用に付く「さ」4つの謎を解く

こんにちは。

通説がなさそうなのをいいことに、雑な根拠で語ります。

「ない」4つの謎

日本語の「ない(無い)」に「そう」「すぎる」をつなげるとき

  • そう
  • すぎる

となります。

謎です。「さ」が謎です。

「さ」のここが謎です。

  1. なぜ「さ」が入るのか?
  2. そもそもなぜそこに一文字入るのか?

比較のため、形の似た語の「やばい」でもやってみましょう。「そう」「すぎる」をつなげると

  • やばそう
  • やばすぎる

です。「さ」は付きません。

ただ、「ない」「やばい」のどちらも、語尾にある「い」が消えるのは同じです。

第3、第4の謎が出てきました。

  1. 「ない」や「やばい」の「い」はどこへ行くのか?
  2. そもそもなぜ「ない」「やばい」など「―い」の後ろが変わるのか?

後ろから順に解明していきます。

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※写真と本文は関係ありません

結論

4つの謎を並べ替え、先に結論を書きます。忙しい人はこれだけで十分です。

  1. なぜ後ろが変わるのか?
    → 観念をこしらえるため
  2. なぜ「い」が消えるのか?
    → 観念をこしらえるのに不都合だから
  3. なぜ一文字入るのか?
    → 「な」だけでは短くて「ない」だとわからないから
  4. なぜ「さ」なのか?
    → なす(成す・為す・生す etc)の活用をまねたから

なぜ後ろが変わるのか?

「ない」に限った話ではありませんが、なぜ日本語は語句の形が変わるのでしょうか?

それは概念から観念を形成するために生まれた方法です。

具体的な方法は個別の言語によってさまざまであり、なぜそういうやり方なのかまでは理解が及びませんけれど、ともかく日本語では今のように語尾をいろいろ変化させるやり方をとります。

「ない」という概念をベースに、「ない」にまつわるさまざまな観念を表明したい。

そこから「ない」の概念を残しつつ、「ない」の語形を変えることが始まったと考えます。これを「活用」といいます。

補足:「概念」と「観念」の違い

当記事で使う概念と観念の定義を補足しておきます。

概念とは、なんらかの言辞にともなう特質を指します。

  • 誰のものでもない
  • (ある程度)認識が共有されている

ので、日本語が流通する社会の共有財産、公共財と言えます。

他方、観念は

私有物とまではいかないまでも、

  • 概念よりは私的性格に寄った何ものかの表明であり、
  • そのぶん個性を帯びてきます。

たとえば「犬」も「かわいい」も概念ですが、「かわいい犬」は観念です。

それぐらいの使い分けです。

くり返しますと、言語によって何らかの観念を表明するためには、概念の表象である言辞をパーツとして組み立てていく必要があります。語句の活用は、そのニーズから生まれてきたのではないかと愚考します。

「い」はどこへ?

「ない」を活用させるときに末尾の「い」が消えるのは、「ない」にまつわるを観念を表すのに都合が悪いからなんでしょうね。根拠のない説ですが。

ただし「そう」につなげる場合、「い」が残るパターンもあります。

「やばい」なら

  • やばそう
  • やばいそう

の形があります。違いを確認しておきましょう。

「やばそう」は話し手の観念です。「やばいそう」は話し手ではない誰かの観念です。ちょうど、ツイートとリツイートの違いによく似ています。ともかく「い」の有る無しで誰発の観念であるかを区別できます。

「い」のついた「ない」を基本概念とすると、「ない」のままの形のほうが、より基本概念に近い観念を表す。ざっくりそういうルールになっていそうです。

ここの「いそう」も、「いそう」なので私の観念です。私以外の誰かの観念なら「いるそう」です。

「そう」「すぎる」への接続ルール

なぜ「ない」に「そう」「すぎる」をつなぐと、「なさそう」「なさすぎる」と一文字入ってくるのでしょうか?

その最大の理由は、「ない」が短いからです。

しかし、「短いから」だけが理由ではありません。「短い」だけでは一文字はさむ理由としては不十分です。

正確に書くと、「短すぎて観念を支える基本概念がわからなくなるから」です。

どういうことか。

日本語の語句の活用は、概念にまつわる観念を表現したいニーズから生まれたと推察しました。

2文字(2音)の語を活用させるとき、末尾の「い」を取ってしまうと、残すパーツが1文字ぶんしかありません。

「ない」を含め、2音の「?い」である

  • ない
  • よい
  • こい

の3つを例に考えてみましょう。

「い」を取っぱらった形の、

  • 「な」が「無い」と
  • 「よ」が「良い」と
  • 「こ」が「濃い」と

認められるかどうか?

そこが判断のポイントとなっています。日本語話者のほとんど誰も意識していないでしょうけれど、やっています。

そして日本語話者≒日本人の判定結果は、ごぞんじのとおり

  • 「な」が「無」か? →マジ無理
  • 「よ」が「良」か? →ちょい無理
  • 「こ」が「濃」か? →基本わかる

です。

したがって、「そう」「すぎる」へつなげた形はそれぞれ

  • なさそう なさすぎる
  • よさそう よすぎる
  • こそう こすぎる

となっています。この結果については、ほぼ例外なく合意が取れています。少なくとも私は、これ以外の形を使う例を見聞きした記憶はありませんので。

よって、「な(い)」+「そう」「すぎる」の形に「さ」一文字分がはさまるのは、「『な』が短いから」が大きな要因でしょうが、それだけが理由ではないことがわかります。短いのは「よ」も「こ」も同じだからです。

「短い」に加わる要因は、「同音異義語かぶり」との力関係にあるとみます。根拠はないです。

結果から逆算すると、

  • 「なそう」は、同音の「為そう」や「成そう」よりも
  • 「よそう」は、同音の「止そう」よりも

弱い。そう判定されていることになります。

他方、

  • 「こそう」の場合、同音に「越そう」「濾そう」などがありますが、

それらよりも「濃そう」が上回ってるとみなされていることになります。「こ」単独でも「濃」の要素が十分に強いと判断されてのことでしょう。単なる現状追認です。

ともかく日本語の形を考えるとき、「区別がつくか?」というのは重要な観点だと考えます。

なぜ「さ」なのか?

それでも、一文字分入る形を取るにしても、なぜに他の何ものでもなく「さ」なの?

という疑問は残ります。どうして他の何者でもない「さ」が入って、な「さ」そう、な「さ」すぎる となるのでしょうか?

言葉の意味は全然違いますが、「なす(為す・成す)」の活用形にならったと考えると、最も整合がとれます。「なさねばならぬ何事も」の「なさ」です。

前段で、「ない」に「そう」を続けるとき「なそう」とならないのは、同音の「{成|為|生}そう」にまぎれ区別がつかないことに日本語が耐えられないからではないかとの説を述べました。

  • なす(成す・為す・生す)に対しては、なそう、なしすぎる
  • ない(無い)に対しては、なさそう、なさすぎる

という形にすれば、そう・すぎるへつなぐ場合も、なすとないの区別ができます。

日本語は同音異義語がわりと多いような気がするんですが、そこまで同音にするのはいやだったんだろうなって感じます。

その基準は何なのかって、新たな謎が出てきましたけど、そんなところです。

参考

[PDF]新規サ抜き・サ入れ表現から見る誤用と正用の分析(寺﨑知之, 2012)

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