【読書メモ】『オリンピックと近代/評伝クーベルタン』抜き書き

シェアする

こんにちは。

ジョン・J・マカルーン『オリンピックと近代―評伝クーベルタン』(柴田元幸・菅原克也訳, 1988)は、オリンピックの文献情報にちょいちょい出てくるのに入手困難です。図書館にしかなく、ネットじゃ古本すら出回っていません。そんな本の読書メモです。

20160907_231918

当ブログでも何度か書いていますが、つまるところ近代オリンピックとは、髭男爵クーベルタンが興した貴族の漫才です。「ルネッサ~ンス」です。

以下、目に留まった部分を訳書の構成に沿って抜き書きします。

緒言

第一章 ラオコーン―悲劇の予感

第二章 貴族の家柄

レネ『フランス貴族の家系および歴史に関する記録』第一巻序文(1828)より:

文明の洗練を経た人間には、名というものはかけがえのない宝である。(p.44)

それは人物と切り離すことのできぬ宝、逆境にあってこそ貴く切実に感じる宝、美徳の長く消えることなき影となるもの、この世で享ける名誉と尊敬の尺度を提供するもの、それが名というものである。(p.45)


ここに無意味な合理化のみを見ること(略)ほど、頑迷で現代の時弊に染まった物の考え方はない。(略)それは取り返しのつかない痛手を受けた出来事に意味を与えようとする試みであり、上流社会の存続と生き残りをかけた倫理的な戦略なのである。(p.50)

第三章 アーノルドとの出会い―スポーツの発見

クーベルタンによるテキストは「イギリスの教育」p.645から。

最後にクーベルタンは次のように論ずる。運動競技は「社会教育にとっての理想的な場を提供する」。(p.178)

要するに、これは「社会の完全な雛型」である。したがって、「われわれの教育制度に何らかの改革が望みうるものならば、その実現はこの手段[スポーツ]によってのみ可能であると私は信ずる。私は、ある一つの動きがこの方向に向かって形をとりつつあり、きわめて望ましい状況を生み出しているとさえ考えている」。そうクーベルタンは結論づけるのである。(p.178)

第四章 スポーツ教育

第五章 オリンピックの理念

一八八九年の万博を通じてクーベルタンは、スポーツが国際的フェスティバル=スペクタクルの一部に組み込まれるという事態を初めて経験する機会を得た。そしてそのフェスティバル=スペクタクルは、(略)新たな象徴や儀式を駆使して――それらがいささか「嘘くさい」ものであったにもかかわらず――博物館や書物では到底不可能な感覚を生みだした。クーベルタンは博覧会に魅了された。(p.280)

いずれにせよ、一九〇〇年、一九〇四年、一九〇八年と三回にわたり、クーベルタンは生まれたばかりのオリンピック大会が万国博覧会に合併されるのを許し、悲惨な結果を招くことになる。(pp.280-281)

第六章 近代オリンピックの誕生

IOCのメンバーはすべてクーベルタンが選び、彼にすっかり酔わされた会議出席者たちの投票により正式に選出された。クーベルタン本人、カロー、スローン、ピケラス以外の各国委員は次のとおりであった。(略)このうち何人かは名前だけのメンバーで、パリ会議に出席さえしていなかった。クーベルタンも、IOCの政策決定の場において彼らが積極的役割を果たすことを要求していなかったし、また望んでもいなかった。(p.358)

第七章 仕掛けとしてのオリンピック―第一回アテネ大会

今後もアテネで大会が開かれるとすれば、国際化の望みは薄い。(p.492)

すなわち、もしギリシアがオリンピックを独占したら、彼とオリンピックとのつながりは、もはや永久に断たれてしまう、ということである。(p.493)

「復活したオリンピズムの場を決定的、独占的にギリシアに据えることは、私の仕事の自殺に等しいということを、私はためらわず確信した」(p.493)

強調は引用元傍点

その遠大な構想の一端に、オリンピックが真に国際的な地位を獲得するためには「巡回」方式をとらねばならないという固い信念があったのである。(p.493)

第八章 結び―オリンピックと近代

しかし、オリンピックが膨大な数の人々を動かし、会場に足を運び、語り、考え、感じ、解釈するといった行為を促したことは確かである。共通の関心たる出来事の回りに各国の人々が集まり、自分自身について、そして「他者」についてさまざまな物語を語ったこと、これは否定のしようのない事実なのである。(p.526)

良かれ悪しかれ、人間の行動を左右するのは、多くの場合まさに型にはまった先入観や浅薄な偏見なのであり、しかも、仔細に検討してみれば、そうした一件浅薄な見解も実は浅薄というにはほど遠い深さを持つことも多い、という事実である。(p.526)

そもそもの始まりから、オリンピック大会は物語の饗宴だったのであり、文化的イメージの創造と交換の場であり続けてきた。そうしたイメージや物語の「質」と効果を判断するには、まずそれらが、劇的に凝縮されしかも意識しない形で人々の眼前に晒されることが必要である。(p.526)


こちらのドキュメントも同書に多くを依拠していました。適宜参照します。

早川武彦「オリンピックの象徴・概念 : より早く、より高く、より強く : Citius, Altius, Fortius(PDF)」(2002)|一橋大学機関リポジトリ

スポンサーリンク
Google AdSense
Google AdSense

シェアする

フォローする

スポンサーリンク
Google AdSense

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)