花巻東高校選手のカット打法をめぐる議論には、重要なポイントが欠けている

こんにちは。

小学生時分に高校野球離れを果たして以来、高校野球離れ歴ン10年である僕から申し上げます。

要旨:Executive Summary

高校野球は、ただの野球ではありません。

これを忘れて高校野球を論じると、あれこれ見失う結果となります。

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2013年夏の大会の事案から

高校野球離れを果たしている僕のもとにも、今年夏の大会(第95回)から伝わってきた事案が1つあります。

その概略をまとめると、

岩手県代表校のある選手が、ストライクをファールにするカット打法で相手投手に球数を投げさせ、安打や四球で高い出塁率を記録していたところ、大会本部から、かかる打法は「高校野球特別規則 第17条」によりバントと見なされうる旨を通達され、次の試合では事実上封印されて活躍できず、チームも負けた。

というものです。この選手は、身長150センチ台の小柄な体格だったとも聞きます。

昨日(9/8)放送の「たかじんのそこまで言って委員会」(ytv)でも、この大会本部のイチャモンに納得できるできないと、議題になっていました。

欠落している視点

僕は高校野球離れしていますので、本事案をめぐる喧噪を逐一追いかけてはおりませんが、少なくとも昨日見たテレビ番組内では完全に抜け落ちていた視点があります。それは、

  • 高校野球はただの野球ではない

という点です。そこを忘れていたために、議論がぼやけていました。

高校野球は野球である以上に「教育」

高校野球はただの野球ではありません。もっと大事な目的があります。「教育」です。

日本学生野球憲章の前文には、こうあります。文言は日本高等学校野球連盟のサイトから採りました。(下線引用者)

国民が等しく教育を受ける権利をもつことは憲法が保障するところであり、学生野球は、この権利を実現すべき学校教育の一環として位置づけられる。

つづく第1条では、大学野球および高等学校野球が「学生野球」と定義されています。

まとめると、高校野球を含む学生野球は、学校教育の一環なのです。

同じく憲章の前文からです。

学生野球は、各校がそれぞれの教育理念に立って行う教育活動の一環として展開されることを基礎として、他校との試合や大会への参加等の交流を通じて、一層普遍的な教育的意味をもつものとなる。

試合や大会に出場することは、単に競技を行うにとどまらず「普遍的な教育的意味をもつもの」なわけです。

そして第2条(学生野球の基本原理)のひとつめでも、こうだめ押しされています。(原文は○付き数字)

(1) 学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする

教育の一環ですから、人間の育成が目的なのです。

教育の一環を忘れた議論は、ピンぼけ

したがって、高校野球を論じたいのであれば、この学生野球の基本原理に立脚しなければいけません。すなわち、「教育の一環」という点を忘れてはならないのです。

この視点が欠落した議論はすべて、ピンぼけの、正鵠を射ないものとなるほかありません。

当事案における教育効果

「教育の一環」という視点から、あらためて当事案をみてみましょう。

その教育効果は絶大です。これが映画祭なら、スタンディングオベーションの拍手が何10分も鳴りやまないレベルでしょう。

なぜなら当該の選手は、この事案によって

創造的なことをやって成果が出はじめると、後出しであれこれ持ち出され、寄ってたかってつぶされる

という、この国の社会の本質を身をもって知らされたからです。

当事者である選手本人や所属チームのみならず、高校野球へ多大な関心を寄せる世間に対しても、この事案がどれほどの「普遍的な教育的意味」を持つか、はかり知れないではありませんか。

夏の大会のあり方も、「教育の一環」

そうした「教育の一環」という視点を持てば、同じく、真夏の炎天下という劣悪きわまりない環境で選手をプレーさせていることも、実に有効なあり方だと評価できます。

それを「おかしい」「正気でない」と文句を言おうものなら、逆に「甘え」「精神が弱い」など、軟弱者の言いぐさ的な批判を集めること請け合いですからね。

としてみれば、部外者へも含めて、高校野球が果たしている教育の効果はまことに絶大であると言わざるを得ません。

若い選手へ初老の僕から

件の選手へ直接言う気はないですが、回りめぐって本人に届いてもいいかなぐらいの感じで書いておきます。

高校野球とはいえ、不利な体格にもかかわらず甲子園出場チームでレギュラーを獲得し、全国大会で活躍を果たすまでには、人一倍の努力と創意工夫があったことと推察します。

しかし言ってしまえば、その程度の努力や創意工夫では、つぶしにかかる世間の圧をはね返すには足りなかった。ということです。

このケースでのチーム関係者や、ましてや高校生である選手個人に求めるのは酷であることを承知で述べると、努力や創意工夫に加えて、昨今の流行語で言うところの「やられたらやり返す」「倍返し」のすべも身につけておかないといけなかったわけです。

当然これは、野球に限った話ではありません。

野球でなくてもいい。どんな分野でもいい。人生のどこかで必ずやり返してほしい。期待しています。

彼の、またすべての高校球児の今後の人生が、幸多きものであることを祈ります。

こちらからは以上です。

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