3分間で「断捨離」チェックメイト

戦ってしまえば 全てはいつかチェックメイト

――ゲスの極み乙女。〈戦ってしまうよ〉(詞:川谷絵音, 2018)|YouTube

ごきげんさまです。
お気持ちコンサルタントのヤシロです。
新・お気持ち片づけ術「脱修羅(だっしゅら)」を提唱しています。

「お気持ち仮説」で読みとくシリーズの途中ですが、単発記事として独立させます。

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こちらの記事で

師・沖正弘の言葉「断捨離」を商標登録してビジネスに勤しむやましたひでこさんへの誤解を正します【2019年版】
こんにちは。 「断捨離」という用語の出自を誤解されている方がしばしば見受けられますので、出典マニアが正しておきます。 タイトルに書いたとおり、「断捨離」は、沖正弘(1921-1985)の言葉です。 要約:Executive Summary ...

「断捨離」はやましたひでこさんの造語ではなく、沖正弘(1921-1985)が遅くとも1976年から使っていた。

という事実を紹介しました。おかげさまで、ごく狭い範囲ながらもある程度浸透したようです。けれども「断捨離」にとって致命的ともなるこの事実の重さまでは、残念ながらまだまだ知られてはいません。

なぜこの事実が致命的かというと、やましたさんを筆頭とする断捨離家の一族からすれば、「次の一手」でこう出られれば論理的に詰み。チェックメイトだからです。

チェックメイト質問

その「次の一手」は、既にTwitter上に公表済みです。



まともな論理では、この質問に答えられません。

「同じ」なら嘘つき

「同じ」と答えると、やましたさんが「断捨離の提唱者」というのは、ウソになります。

この場合、断捨離の提唱者は沖正弘です。

「違う」なら支離滅裂

だから「違う」と答えたいところですが、そうするとおかしなことになります。

ならばなぜ、自分と違う「断捨離」に憤ったり、無断での商業利用を禁じたりしなければならないのでしょうか?

自分の掲げる「断捨離」も、沖の掲げた「断捨離」と違うのに。

「断捨離」の支離滅裂に迫る

これが一休さんのとんち話なら、ここらで殿様やら商人やらがむぎゅーとなって終わるところです。けれども無慈悲きわまる地獄であるこの世では、話は終わりません。

無断使用の横行
勝手使用の跋扈

それよりも、なによりも、

浅薄な解釈で、「断捨離」を、さも、自分のものとして語る輩たち。

それが、一番、やりきれなかった。

出典:それが、一番、やりきれなかった。|やましたひでこオフィシャルブログ「断捨離」(2018/08/29付)

なぜやりきれないのでしょう? なぜ「それは違いますよ」と表明するだけですまないのでしょう? 問題はそこです。

以下は、オフィシャルブログのまた別の記事から。文字修飾もまねてみます。

「断捨離」は、やましたひでこ個人の登録商標です。

そうですね。

決して、一般名詞ではありません。

違います。一般名詞でもあります。

つまり、「非常に広く知れ渡っている」と評価されるべき登録商標です。

以上出典:やましたひでこ憤る!~コレが本物のカニでないように、ソレは「断捨離」ではありません。(2018/10/05付)

あい変わらず、非常に紛らわしいです。

断捨離を「非常に広く知れ渡ってる」と評価するとき、その大部分は一般名詞の断捨離が担います。なぜなら集団のサイズは、

「断捨離」を知る人 > 「断捨離」提唱者はやましたひでこ、を知る人 >> 「断捨離は登録商標」を知る人

という関係だからです。2015年以来つづく、登録商標「断捨離」にザワつく静かなブームが、その証左です。

こうした支離滅裂に迫るための道具が「お気持ち仮説」です。一見そうは思えない物事に対し、

ひょっとしてそれは「お気持ち」の問題ではないか?

と考えてみる、という手法をとります。

ということで。

コメント

  1. omoide より:

    手元にある沖導師(沖先生の当時の呼び方で、尊敬しているのでこの語を使います。)の最初期の本、「ヨガ行法と哲学(旧版)」昭和35年発行の331ページに「断、捨、離」とあります。他のページにも出てくるのかもしれませんが調べていません。

    この本より前にも機関誌などを発行されているので、この本が初出とは言えませんが、1960年には使っていたことになります。

    沖導師の「断捨離」の意味ですが、世に言われてる「断捨離」とはかなり違うように感じます。この本では、『断ち、離し、捨てて、苦しみを感じる場合には、中毒しているのであって、煙草に中毒していると、これを断った時に苦しみを感じ、家族に中毒しているものは、家から離れると苦しみを感じるのである。ありがたみも、喜こびも、感謝も感じない生活は、中毒している証拠であるから、とにかく、慣れてはいけないのである。(中略)時々、離れてみる、別れてみる、無いつもりになって生きてみると、正しい観方、受け取り方が生まれてくる。物の価値、ありがた味、必要性、恩、自己への協力、自分の位置、自分の責任などをしみじみと味わうことができる。(後略)(331~332p)』

    沖導師の「断捨離」は、捨てる技術ではなく、あたりまえの中で麻痺してしまった物事へのありがたさ、恩を感じる精神の清らかさを、言っているのではないでしょうか。

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