マスコミが「平野敬子ブログ」を取り上げない理由【五輪エンブレム問題】

こんにちは。デザイン芸人が見てきたように語ります。

要約:Executive Summary

マスコミが、東京五輪エンブレムの選考をめぐる問題にからんで、審査委員を務めた平野敬子さんのブログ「HIRANO KEIKO’S OFFICIAL BLOG」やその内容を取り上げない理由は

  1. 平野さん本人に取材を断られているからです。
  2. 電通の圧力ではありません。
  3. さらに言えば、平野さん以外の(適切な)人からもコメントを得られなかったからです。

【補足】マスコミの人は、「コメントほしい病」です。地位の高い人のコメントほど、ニュースバリューを高めると思い込んでいます。「ひと系」の病です。

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以下、細かな経緯は略して、個々の理由について述べます。

理由1:平野さんが取材を断っている

まず事実として、平野敬子さんは10月に開設したブログの最初のエントリで、このように述べています。※下線は引用者

この間、新聞、テレビ、週刊誌といった複数社から取材依頼の連絡をいただきましたが、経験したことのない特殊な状況ということもあり、どのように対応すればよいのか瞬時に判断できず、また審査は8名で行われましたので、ひとりの発言が他7名の審査委員にも影響を及ぼすと考え、発言を控えてまいりました

001 責任がとれる方法で(2015/10/10付)より〕

取材の依頼をすべて断ってきたことがわかります。

連絡をいただきましたマスコミのみなさまに、この場をかりてお詫び申し上げます。

また、それを心苦しく感じていたであろうこともうかがえます。

メディアの側からすると、この状況では記事にしにくい面はあります。

反例:取材拒否でも記事になったケース

しかし反例として、当人が取材を拒否していても、記事にされることはあります。記憶に新しいところでは、野々村竜太郎・元兵庫県議会議員のケースがそうです。

私、野々村竜太郎に対する取材等は既に固くお断り申し上げておりますが、念のため、重ねまして、テレビ局やラジオ局、新聞社、通信社、週刊誌や漫画・アニメ等出版社、インターネット新聞・テレビやブログ・ツイッター・フェイスブック等、フリージャーナリスト等全てのマスコミ、報道機関等に関係される皆様に対しまして、コメントや会見は一切致しませんし、自宅や家族宅の訪問やインターホンを鳴らしたり(305字省略)全ての行為等を固くお断り申し上げ、ご遠慮されますよう、お願い申し上げます。

報道関係者等の皆様|野々村竜太郎公式ブログ(2015/11/24付)より〕

というエントリの存在(および公式ブログの存在自体)を、私はニュース記事から知りました。

違いは何か?

平野さんの場合、他に「コメント適任者」がいない、あるいは「適任者」と目した人物にすべて断られたであろうことが違いだと思います。

001 責任がとれる方法で(2015/10/10付)」から、ひとまずこの点だけ。

あたかも罪人のように扱われながらなす術もなく、マスコミのメカニズムの怖さを目のあたりにし、責任を果すためには、偏った情報となる可能性がある方法は選択したくないという思いが強まっていきました。

審査委員として知り得ることを、問題の本質がぶれないように、責任がとれる範囲と領域において、責任がとれる方法でお伝えするためには、直接書き記すしかないと考え、このページを開設することを決断いたしました。

私は以上の記述から、公式ブログに書いてあることを平野さんの公式なコメントと受け取っています。

しかしマスコミの人らは、それでは満足しないようです。

「下手こいた」?産経新聞

厳密には「マスコミが取り上げない」というもの言いは正しくありません。過去に「審査委員によるブログ」の存在を報じた記事もあったからです。

私の知るものでは、10月22日付の産経新聞朝刊です。

付随する話として、ここで産経新聞が取材のやり方を間違えた結果、他のお仲間メディアも触れづらくなっている面もあるのかもしれません。平野さんによる別のブログエントリからです。

今朝の産経新聞に、このブログの一部を転載した記事が掲載されました。その記事は、取材依頼を強くお断りしたにもかかわらず、私のブログの文章を勝手に引用した、執筆者の記憶のみが根拠の、新聞社の責任として裏づけをとっていないと思われる記事です。

005 ブログを読んで下さっているみなさまへ(2015/10/22付)より。以下同じ〕

このエントリの更新当時、図書館へ行って10月22日付の産経新聞朝刊を見てきました。「なんだつまんない記事だな」とコピーも取らず帰ってきました。

記憶だよりで書いてしまいますと、平野さんには悪いですが、「内容が薄っぺらい」という点で品質的な問題はありましたが、記事にすること自体が問題とは思えませんでした。

法的には問題がないかもしれません。ないのでしょう。しかし法律を盾にとり、取材もせずに、憶測で記事を書くことが許されるのでしょうか。

残念ながら、許されます。

ただし出典を明記しておらず、「審査委員の一人」と情報源をぼやかした書きっぷりだったのが、引用の「公正な慣行」の範囲に外れるかなという気はしましたが。

エンブレム問題で連絡をいただきました新聞社をはじめとするマスコミの方々は、ごく一部の方を除き、理性的に、誠実に対応して下さいました。しかし、昨晩やりとりをした産経新聞の女性記者の方法は、卑怯、卑劣、極まりないものでした。

産経新聞の記者と平野さんとの間に具体的に何があったかはわかりません。

けれども紙面に平野さんの名前を出せなかったのはこういう経緯があってだったのかなとも思います。知らないけど。

「取材」とは何か

引用した平野敬子さんのブログの記述でひとつ気になることがあります。

「取材」の使い方です。ここもそうです。

今後も私は取材をお受けいたしません。
どうか、私に考える時間を与えて下さい。

005 ブログを読んで下さっているみなさまへ(2015/10/22付)より〕

「取材」を「人にあたる」ニュアンスで使っています。「ひと系」の発想です。

しかし、辞書で「取材」を引くと

ある物事や事件から作品・記事などの材料を取ること(広辞苑)

となっています。「取材=材料を取る」対象は「人」に限られていません。

ですからたとえば平野さんのブログを読むことも「取材」の範疇に入ります(それが取材として十分かどうかは、別の問題)。

この話はまた後ほど。

理由2:電通の圧力ではない

Twitterでは、電通の圧力を疑うツイートも見られました。

ほかは知りませんが、少なくとも本件で「電通の圧力」なるものの存在は認めがたいです。それらしき証拠も見当たりませんし、そんなものがなくても、報道されないしくみを説明できるからです。

臆測でものを述べることは自由ですが、(私の)信用は失われます。

理由3:「取材」して「コメントほしい病」

どうもマスコミの人は、当人にあたってコメントを取ることこそが至上の「取材」だと思っているフシがあります。確かにそれも取材に違いありませんが、そこへ異様なまでに価値を置きすぎているように見えます。

「コメントほしい」病の例

STAP細胞の論文不正で騒がしかった頃、次のように書いていたブログ記事があり、いたく共感しました。引用します。

これまで一連の取材のご依頼で不思議だなぁ、と思うのは、記者さんたちはなぜ「コメントを!」というのでしょう?

小保方氏会見から得られたもの|大隅典子の仙台通信(2014/04/12付)より〕

誰かのコメントをほしがるのは、記者に典型的な「ひと系」の特徴です。

ブログ筆者の大隅さんは、このように述べています。

私自身は、自分の意見をこのような拙ブログにも書いて公開しているので、そのコメントを「引用」して頂くことは、どのような扱いになるのであれ、拒否はできないことです。

一方、電話等で「私はこれこれのように思いました」というコメントを残したとして、それが実際にどのような活字になって新聞・週刊誌等に載るのか、録音されたインタビューのどの部分が切り取られてTV放映に使われるのか、こちらがコントロールできないことが不安です。

自分でブログなどに書いてある「こと」の方が、よほど責任が取れる。私の場合、こういう感覚の方がずっと共感できます。読んで以来、大隅さんを勝手に「仲間」と思っています。

私からすればどうでもいい情報ですが、「ひと」に関する情報がないと判断できない人たちのために付け加えておきます。こんな方だそうです。

大隅/典子
1960年神奈川県に生まれる。1985年東京医科歯科大学歯学部卒業。1989年東京医科歯科大学大学院歯学研究科博士課程修了(歯学博士)。1996年国立精神・神経センター神経研究所室長。1998年東北大学大学院医学系研究科教授

amazon.co.jp >『脳の発生・発達―神経発生学入門 (脳科学ライブラリー)』(2010)著者略歴より

「本人取材拒否」の場合の記事のつくりかた

ともに本人は取材を拒否していることは同じであるにもかかわらず、平野敬子さんの件は取り上げられず、野々村竜太郎さんの件は取り上げられました。2つの案件の違いはどこにあるのでしょうか。

こじつけると、野々村さんの事件を記事にできているのも、代理人弁護士などの然るべき「人物」が「取材」に対してコメントしてくれた結果でしょう。

たとえば

などは、いずれも野々村さん本人に取材せず書かれた記事に思われます。ですが、それなりの人物による「コメント」で成立しています。具体的にいうと、前者は北村晴男弁護士、後者は野々村さんの代理人弁護士、ならびに近隣住民(いずれも氏名不詳)です。

メディアの記事というのは、とにかく「ひと」を中心に回っています。

ついでにひとつ私見を述べると、野々村さんに必要なのは、取材ではなく医療だと思います。

「ひと系」発想では糸口なし

五輪エンブレム審査過程の問題に戻ると、「ひと系」発想でいると、平野敬子さん本人に取材を拒否されると、平野さんの「告発」を記事にする糸口が見つかりません。少なくとも私には見いだせませんでした。

ですから私は「ひと系」とは違うアプローチを取ります。

余談:これも「ひと系」発想か

当記事の主題とは直接関係ないですが、エンブレム問題つながりでひとつ放り込んでおきます。

次点と伝えられているエンブレム作者原研哉さんのツイートです。

上のツイートで、原さんは、審査委員という「人」からの説明を求めているように読めます。これも「ひと系」の発想です。

私から見れば、審査過程での事実関係は(十分とは言えないにせよ)12月18日の記者会見で配付された調査報告書から相当程度明らかになっています。

「アイデア」誌のサイト上で全文をテキスト化して公開しています。ありがたいことです。

よって、審査委員は聞き取り調査に応じたことで、協力しなかった平野さんはその経緯をブログ上で説明したことで、その責任を果たしているように思えます。

原さんはあと何が不足なんでしょうか。上のツイートだけでは読み取れませんが。

まとめ

マスメディアの世界は、内容よりも「誰が言った」が重視される「ひと系」の世界です。

そしてメディアに限らず、世間一般でも「ひと系」が優勢に思えます。

人重視の「ひと系」が悪いとは思いませんが、物事のほうが大事な「コト系」の私は、いささか偏りがすぎるように思っています。

おことわり

平野敬子さんのブログの各エントリには、こう記されています。

本ブログに掲載の文章の一切の転載を禁じます。

平野さんの意志は承ったうえで、この記事では公開された文章に対するルールを優先して、そのルールの範囲で取り扱いました。

こちらからは以上です。

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