「シン・ゴジラ」語り・好プレー/珍プレー

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こんにちは。面白さは細部に宿る、という話です。

7月29日の劇場公開以降ネットにあふれ出た「シン・ゴジラ」語りを仕分けます。玉石混淆の玉と石を見分ける参考となれば幸いです。

以下ネタバレを含みます。未見の方はぜひ、お近くまたは遠くの映画館で鑑賞を。

好プレー:コト系

私にとって断然面白かったシン・ゴジラ語りは、何か特定の事柄に焦点を絞った「コト系」コンテンツです。

中でも大いに感心し、かつ刺激を受けた「シン・ゴジラ」語りのテーマは、

  • ビル
  • フォント

に関してでした。順に紹介します。

ビル

JR東京駅エリアの建物にだけ注目した次のブログ記事2つが素晴らしかったです。

作品語りに際し、いろいろと大きな示唆を与えてくれました。

これらの記事のおかげもあり、私はシン・ゴジラの

  • 作品世界の基本構造
  • 劇中の新幹線が反転していた(東京側が1号車だった)理由

をほぼ解析することができました。ありがたいことです。「読み切れるぞ!」と自覚できた瞬間からしばし陶然としてしまったほどなんですが、その話はまた別途。

フォント

同一のTwitterアカウント(@shota_)からの一連のツイートが大変に濃厚で勉強になりました。

かかる結論へ至れるだけの蓄積に敬意を表します。

2つあります。

劇伴(劇中の伴奏音楽)について

が、面白く刺激的な分析でした。noteの新着通知から知りました。

とりわけ、次の2つの情報が大変有益でした。

  • 冒頭、ゴジラの咆哮が「初代」版から0.15秒ほど後ろへずらされていること
  • 伊福部昭の自筆スコア1ページ目がネットに載っていること→akiraifukube.org

ここらをふまえ、いずれ冒頭の10数秒間を語り継ぐ予定でいます。

効果音について

またSE(効果音)に関しても、いろいろ「へぇ」となるツイートが出ています。

さながら底なし特撮沼の様相を呈しています。出典集めは膨大な作業となりそうです。

なお複数証言は出ておりますが、自分自身で確認を取っておりませんので、「こういう情報がある」レベルでお知り置きください(責任逃れ)。

珍プレー:ひと系

その一方、もっぱら人に関心を置いた「ひと系」のシン・ゴジラ語りは総じてひどいものでした。

というのも、とにかく「シン・ゴジラ」は作品に詰め込まれた情報の量もクセもすごいため、うかつに語り出すと「自己紹介」が如実に表れ出るためです。気の毒すぎるゆえ具体例は出しませんが、「乙」としか言いようがない惨状を呈した評がいくつもありました。

ほんとに恐ろしい映画です。

ほんとうは怖い「シン・ゴジラ」語り

客観的な観察と分析を欠いた批評は、ただの自己紹介です。直接間接に私利私欲を表明した自己紹介そのものが悪くはありませんが、そこから公共性へは向かいません。

似たようなことは、小林秀雄(1902-1983)にもナンシー関(1962-2002)にもとっくに言われてます。

いわく、小林の「批評トハ無私ヲ得ル道デアル」であり、

20160902_hideo

関の、見えるものしか見ない「顔面至上主義」であります。

画像出典:

以上を指針として、今後の「シン・ゴジラ語り」シリーズを進めてゆく所存です。

珍プレー:シン・ゴジラ「自己紹介」語りの発見

拡散されてたこちらのツイート↓

出典はどこだろう?と引用ツイートしてたら、直々にご教示をいただきました。かたじけないことです。

再掲します。ここらあたりだそうです。

後者から代表して1つピックアップ。

げに「周到に論を組み立て、自分を客観視でき」ない人に、もっぱら人にばかり関心が向く「ひと系」が数多くいる傾向を感じます。

「自己紹介」を生むメカニズム

「シン・ゴジラ」には、通常の映画と比べておよそ8~8.5倍の情報が詰まっています(※当社比)ゆえ、通常の情報処理能力では、1回やそこら全編を鑑賞したところでとても全貌を把握しきれません。(把握すべきという話でもありません)

そのため大半の評が、自身の興味関心にヒットしたところに食いついて他を等閑視した形にならざるを得ず、煎じつめれば評者の「自己紹介」となってしまいます。乙です。

マイルドな例で述べると、たとえば「シン・ゴジラ」を3.11の津波と原発事故になぞらえて語る方は多くいますけれども、再「上陸」後のゴジラの動きが台風を想起させることを語る人はさほど多くありません。

ともかく、そういう「ムラ」のある語りになることが必至です。

自己紹介語りあるある:現場から乖離しがち

「自己紹介」評にはもう1つ特徴があります。簡単に「現場」を離れてしまうことです。現場をすぐに離れ、関係あるようでいて実のところ首の皮一枚程度の引っかかりしか持たない話ばかりをしがちです。「映画評」ではなく、多くが「映画に反応した人物評・時評」になってしまってもいます。乙です。

まだ挙げられる例

「自己紹介」タイプの中でまだ言及に値するものをひとつ挙げると、辻田真佐憲さんによる

があります。実際問題、あんなに都合よく「覚醒」しないよとの論調でした。このクオリティでやっと、取り上げて言及しても恥ずかしくない水準です。

いろいろ返信が殺到したみたいですが、私自身は副題の「野暮は承知であえて言う」込みで8割方承れるお話ではありました。

口さがなく言えば、ここでの辻田さんはご自身の新著『大本営発表』の販促活動の一環として話題の映画に乗っかってるんで、そこらのつながりが言葉足らずで伝わっていないように感じられました。

関連情報

ちなみに「炎上」の後日談(といっても、記事の公開当日)は、辻田さんが出演された回のTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」番組コンテンツ(音声+テキスト書き起こし)で聴けます。

「case closed」感あります。

「コト系」批評のすすめ

感心した評には、共通する特徴がありました。ビルもフォントも音も、すべてがみな、そこに見えているもの、聞こえているものにのみ集中していたことです。

これをナンシー関は「顔面至上主義」と称していました。引用します。

見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ。

出典:愛川欽也 大御所の正体は「小心者」 ―『何をいまさら』(1993, 1998),『ナンシー関の名言・予言』(2013)所収

客観的な(=第三者が検証可能な)分析が、自己紹介大会を脱出するカギとなりそうです。

日本史ともからめる大言壮語

さらに大言しますと、日本列島の統治勢力がここ5~600年ばかり志向し続けてきた「ひと系」優位の世がいよいよ行きづまりを見せ、「コト系」優勢となる世の中へと転換が起ころうとしています。いや、局地的にはすでに起こっています。

かかる基本的認識に立ち、「シン・ゴジラ」語りを通じて既存システムの「反転」促進へとつなげるのが当ブログの壮大な野望です。

そのなかで、遅れた議論に明け暮れる界隈の停滞ぶりとイケてなさ加減を自分なりに広く世に示し、知らしめたい意図もまたあります。

いち早く、自身で「ウラ日本」と呼んでいる路線へ進み、幸せに生きることにします。

だからみんなも生きぬいて。

つづく

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