あいまいな日本人ばなれの私―8月4日「あすなろラボ」林修さん授業感想(2)

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こんばんは。林修ナイトの時間です。

8月4日の「あすなろラボ」で放送された林修さんのおデブ向け授業の感想シリーズ、その2です。

「日本人ばなれ」という言葉を考えます。

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この記事の要約:Executive Summary

この記事では、次の5点を述べています。

  • 「日本人ばなれ」はおかしな言葉だと思う、という林さんに同感です。ただしおかしさのポイントは違います。
  • 使い手ごとに「日本人」像がぶれまくっていることが、混乱を生んでいます。
  • 「日本人」は、「統計的多数」や「統計的平均」の雑な言いかえに思えます。
  • 「日本人ばなれ」が悪い意味で使われないのは、悪い意味での「日本人ばなれ」も「日本人」に含まれるからです。
  • 「日本人」を含め、雑で大きなくくりでものを言うことは避けたいものです。

「日本人ばなれ」のおかしさはどこか

「日本人ばなれ」という言葉について、林さんはこう述べられていました。

林「僕ね、この言葉はおかしな言葉だと思うんですよ。(略)これ、いい意味で使いませんか? 日本人離れしたスタイルの良さ。日本人がなんで日本人離れなきゃいけないんですか。日本人は日本人らしいってことに誇りを持てばいいのに、この国は日本人離れしたスタイルの良さプロポーションの良さっていう言い方をしますよね」

「日本人ばなれ」がおかしな言葉だという点は同感です。しかしおかしいと思うポイントは林さんとは違います。

僕がおかしいと思うのは、話し手の「日本人」像に対してです。

よって立つ「日本人」像が人により場面により揺れ動いてしまい、不確かすぎないかという疑念が僕にはあるためです。

ディベート的反論

僕は、日本人のあいだでの「日本人」像の確かさ・普遍性に疑問を持っていますので、仮にここで林さんに楯突くのであれば、僕は次のように反問するでしょう。

「日本人は日本人らしいってことに誇りを持てばいい」

―なるほど。では、誇りを持つべき日本人らしさってたとえば何ですか?

日本語コーパスの用例から考える

用例を見ながら「日本人ばなれ」を考えていくことにします。

現代日本語書き言葉コーパスの少納言で「日本人ばなれ」「日本人離れ」を探してみますと、およそ40件ほどの用例が見つかりました。

その中から、以下にいくつかのカテゴリーに分けて取り上げていきます。

1.体型に関しては、ほぼ林さんの言うとおり

まずは体型、体格に関してです。これは林さんの言うとおり「日本人ばなれ」はいい意味で使われているように見受けられます。検索結果から引用します。

腰からお尻の線が日本人離れのしたカーブを描いていた。
―五木寛之『青春の門 堕落編(下)』(1977)

慶子の傍を通り過ぎた外人男性が、日本人ばなれした彼女のプロポーションに、関心あり気な目を向けた。
―門田泰明『愛憎のメス』(1987)

初主演となった本作では、日本人離れしたダイナミック・ボディを披露。「最初で最後の」オールヌードビデオ。
―「週刊現代」2002年3月2日号

DF 松田直樹 日本人離れした身体能力の高さが武器。大きい選手にも負けないの♪
―「My Birthday」2002年6月号

2.顔立ちに関してはそうでもない。わりと中立的

体型よりも数が多かったのは、顔立ちに関する用例でした。しかし、必ずしも「いい意味」とは言えません。言うならば価値中立的です。5例引用します。

黄色くなった歯はともかくとして、髭をきれいに剃って身だしなみを整えれば、ちょっと日本人離れした精悍な顔つきだ。
―天樹征丸『金田一少年の事件簿 上海魚人伝説殺人事件』(1997)

自分でいうのは変だが、ぼくは子供の頃から日本人離れした西洋人の面立ちをしているとよくいわれてきた。でも、ぼくは純然たる日本人だ
―森詠『冬の翼』(1989)

母方の祖母からフランス人の血を受け継いだクオーター。日本人離れした端正な顔立ちでありながら、口を開けばボケキャラ炸裂。
―ジャニーズ研究会編『ジャニーズおっかけマップ』(2002)

「色白で、ぽちゃっとした顔つき、深い二重の瞼に、日本人離れしたどこかの民族を思わせる」(伝記作家、大下英治)雰囲気が漂う。
―久野万太郎『リニア新幹線物語』(1992)

メリー藤田はここで、彼は日本人離れした顔だちで背が高く、すらりとした体つきだったと補足した。
―上坂冬子『生き残った人びと(上)』(1992)

そして日本人離れした顔立ちを修飾する語句は、「彫りの深い」が最も多く4例ありました。代表して1例だけ引用します。

男の、日本人離れした彫りの深い顔立ちが、カムフラージュの手助けをしていた。
―新堂冬樹『闇の貴族』(2002)

「精悍」「端正」「彫りの深い」をいい意味と言ってしまえばそうですが、文全体では端的な事実を述べた表現であるようにも思われます。

3.わずかながら、悪い意味もあった

1つだけですが、どちらかと言えば悪い意味に取れる用例もありました。

大久保にはむしろ日本人離れした要素があり、その故に国民的人気は全くない。
―文芸春秋編『「翔ぶが如く」と西郷隆盛』(1989)

4.首をひねる用例も

かと思えば、それって日本人離れしてるのか?と、首をひねってしまう用例もありました。

日本人離れして酸性になりやすい体質なので、それを中和する薬をそれからずっと飲んでいる。
―鈴木健二『自分学のすすめ』(1982)

赤児長二の肩先に竹の切株が貫通した、というようななまなましい描写にはどこか日本人ばなれのした徹底性があって、
―種村季弘『晴浴雨浴日記』(1989)

即座にアメリカに飛び、その場でライセンス契約を決めてしまうあたりは、やはり日本人離れした何かを感じないわけにはいかない。
―岸宣仁『ゲノム敗北 知財立国日本が危ない!』(2004)

こだわりのない自由な発想と合理的な計算のできた所に、織田信長の日本人離れをした天才性がある。
―堺屋太一『豊臣秀長 ある補佐役の生涯(下)』(1985)

白髪をオールバックにし、これまた白くなった口髭をたくわえたその風貌は、日本人ばなれした洋服の似合いっぷりだった。
―村松友視『黄昏のダンディズム』(2002)

「メリー・ジェーン」という名曲ゆえに日本人離れしたソウルシンガーと誤解されている節のあるつのだ☆ひろだが
―貴地久好・高橋秀樹『歌謡曲は、死なない。』(2000)

少なくとも僕は、描かれた彼らが「日本人ばなれ」だとすぐには賛同できないです。

仮説:「日本人」とは、「統計的多数」「統計的平均」の言いかえではないだろうか

これらの用例、とりわけ首をかしげてしまった用例を見ていて、「日本人ばなれ」というのは、単に使い手にとっての「統計的な外れ値」のことを言っているだけではないかという仮説が出てきました。

「統計的」と言いましたが、科学的検証に堪えるものに限らず、単なる個人的な経験からの感触も含まれる、どちらかと言えば雑な概念です。

「日本人ばなれした美人」で考える

「日本人ばなれ」の「日本人」とは、書き手・話し手にとっての「統計的多数」「統計的平均」の言いかえにすぎない。

コーパスの検索結果から、この仮説にいちばん当てはまっていると思えた用例を引用します。

カノジョは、日本人ばなれした美人だった。目はぱっちりとして睫毛が長く、鼻筋が際だっている。
―千代延紫『無限冥宮』(2001)

そう聞いて僕の頭に真っ先に浮かんだのがこの人です。

【オリジナルしおり特典付】原節子

※画像は、『原節子』(キネマ旬報社 2012)

彼女が《目はぱっちりとして睫毛が長く、鼻筋が際だっている》人並み外れた美人であることに異を唱える人は少ないでしょう。問題はそれが「日本人ばなれ」しているかです。

たしかに、彼女の美貌を「日本人ばなれ」と形容する用例も多数あります。ちょいと検索して見つけた例だと

「日本人離れしつつも、日本的な美人」というべき、たいへんな美人である。
深澤真紀のニッポン女児論(2012年11月9日付)

とか。しかし原さんは、まぎれもない日本人です。

林修さんならここでも「日本人がなんで日本人離れなきゃいけないんですか」と言うのでしょうか。

僕はこう思います。こうした用例での「日本人」とは、「人並み」を、つまり統計的多数、統計的平均のことをそのように言ってしまっているだけではないかと。

「複雑」から「雑」へ

だとするなら、言い方としてずいぶんと雑な気はします。

しかし人はふつう、複雑な物事を複雑なままで理解することが苦手です。脳への負荷が高いのだと思います。

複雑な現実から得たデータ、あるいは、自らの経験から得た感触の総体を、複雑なままで留め置いて理解したり表現したりするのはしんどいから、雑に「日本人」と言っているのではないか。

そして上ぶれ、あるいは下ぶれした統計的な外れ値のことを、思考と語彙の貧しさから「日本人ばなれ」と言ってしまっているだけではないのか。

そんな気がしてきました。

考察:「日本人ばなれ」を悪い意味で使わない理由

ここまで考えてくると、「日本人ばなれ」が悪い意味ではあまり使われない理由も、暫定的ながら「ひょっとしてこうじゃないかな?」というものが見えてきます。

なぜ、「日本人ばなれ」をあまり悪い意味で使わないのか?

それは、話し手・書き手にとって、悪い意味になる側の「統計的な外れ値」は、「ありえる」ことだからです。

有名人を例に出すと、芸人のキンタロー。さんのプロポーションは、日本人離れしています。しかし、少なくとも僕は、そう言われるのを聞いたことはありません。

なぜならこの場合、「統計的な外れ値」であるのは間違いないのですが、「ありえる」外れ方だからです。別の言い方をすると、「日本人ばなれ」という言葉の使い手にとっては、悪い側に外れても「日本人」に入ってしまうのです。

一方で、同じく「日本人ばなれ」の使い手にとっては、「八頭身美女」伊東絹子さんの体型も、また原節子さんの美貌も、どちらも「ありえない」外れ方です。だから「日本人ばなれ」と言ってしまうのです。

だとするならば、なぜこんな具合に認知の枠組みが非対称なことになってしまうのでしょうか。そこはまだ考察が足りていません。

まとめ:おかしいのは「日本人」像の側

「日本人ばなれ」の用例の多くは、複雑な現実を雑にくくって「日本人」と言ってしまっているだけではないかと、これまた雑に結論づけておきます。

ひと口に「日本人」といっても、その外面も内面も実に多種多様であり、その平均像、多数派像も共有されているようでほとんどされていません。それが僕の現状認識です。

ですから、そのような現状の中で安易に「日本人」を持ち出すことはつつしみたいものです。

あいまいに日本人ばなれした僕からは以上です。ご静聴ありがとうございました。

つづくかも(←あいまい)

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