「弱者の側に立つ」ということ―カウンセリング・森友学園問題

こんにちは。家政婦のヤシロです(ウソ)。

「弱者の側に立つ」という切り口での3題です。

1 カウンセラー・信田さよ子さんの場合

信田さよ子さんの近著『家族のゆくえは金しだい』(2016)に、こんなことが書いてありました。

 カウンセリングにおいては、常に弱者の立場に立つ。
目の前にいる人の立場に立つ。ただし目の前の人がもし誰かを傷つけていたら、そこにはいない、被害を受けている人の側に立つ。
 これが私の基本である。
(p.163)

 

その理由を、信田さんはこう説明しています。

中立の立場に立つと、必ず権力者の耳になってしまう(p.162)

極論すれば中立という立場はありえない(p.162)

「権力者の耳」とはまた強烈な表現です。心してかからねばならない箴言でした。

2 ノンフィクション作家・菅野完さんの場合

国有地の取引をめぐる疑惑が表面化したこの2月以降、アレすぎる教育実態を含めあれこれ騒々しい森友学園。そこにまつわるあれこれの取材・発信を続ける菅野完さんが、こんなツイートをされていました。

要は「弱者の側に立つ」わけですね。

あるいは信田さんによる言い回しを展開させて、「反権力者の耳で聞く」をモットーにしているとも言えそうです。

しかし「反権力」って文字にするとえらくダサいな。

3 「森友学園にお越しいただいた方々」の場合

さて、森友学園が例の豊中の地に開校しようとしていた「瑞穂の國記念小学院」、そのパンフレットの1ページが先日報道されていました。

20170322_9

森友学園にお越しいただいた方々です。
※画像は、森友学園:さて今の思いは…「広告塔」の保守系文化人たち|毎日新聞(最終更新 2017/03/15付)から

総勢20名の方々の顔写真がフィーチャーされていました。全員を特定したかったのですが、あいにく私の調査能力では、全20名のうち、おじいちゃん3名が誰だか判明しませんでした。残念。

あと、記事のなかでこれらの方々が「保守」さらには「文化人」と総称されていることに私はかなり強い抵抗を感じたのですが、いまはスルー。

何はともあれ、小林秀雄が1974年8月に鹿児島は霧島で行った講演の一節を思い出して、ついニヤニヤしてしまう光景なのでありました。

小林秀雄の一刀両断

その一節がこちら。※下線は引用者 以下同じ

左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに私(わたくし)なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。どうしてああ徒党を組むんですか、日本を愛するんなら。日本を愛する会なんてすぐこさえたくなるんですよ。バカですよ。

出典:「なぜ徒党を組むのか」小林秀雄講演 第2巻―信ずることと考えること [新潮CD]所収

ニヤニヤが止まりません。

回答(例)

ニヤニヤが止まりませんが、それでも秀雄小林の発した「どうしてああ徒党を組むんですか」の問いに、今の私ならこう答えられます。

それは「弱者だから」ですよ。

弱者だから、いろいろとアレな界隈へ吹きだまってしまうんです。

「強者」秀雄小林への反論

よくよく検討してみると、この小林の論理って、いろいろ恵まれた「強者」の論理なんですよね。

同じ講演からです。

信ずるってことは責任を取ることです。(略)ぼく流に考えるんですから、もちろんぼくは間違えます。でも責任は取ります。それが信ずることなんです。

ぼく流に考える。だから間違えることもある。でも責任は取る。

一見、誰にでも開かれた方法のように思えます。私もごく最近までそう思っていました。しかしそうじゃなかった。どうも世の中には、それが著しく困難な人がいるみたいなんです。私もにわかに信じがたかったのですが、ここ数か月「共感」や「愉快なサザエさん」問題をテーマに研究した結果、認めざるを得なくなってきました。

共通するキーワードは《「個」の不在》です。詳細は別途個別に書くつもりなのでそちらで。

くり返すと、世の中には小林の言う「信ずる」ができない人が相当数実在している。よって、次のようなくだり

だから信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるんです。そうすると人間は、集団的になるんです。会がほしくなるんです。

自分流に信じないからイデオロギーってものが幅をきかせるんです。だからイデオロギーは匿名ですよ常に。責任を取りませんよ。

は、出発点から理屈がひっくり返っていることになります。違う、そうじゃない。「弱者の側に立つ」ならば、流れが反対です。

「弱者」の論理では、こうなる(はず)。

「弱者の側に立つ」論理で述べれば、こうなります。

そもそもは、集団的に生きるのが生物種としてのヒトの習性です。むしろそっちが「本態」と言ってよさそうです。

集団的に生きるのが本態ですから、「匿名」がデフォルトです。当然に「責任」などという概念も発生しません。「責任?なにそれおいしいの?」です。

  • (間違えるかもしれないが)自分流に考える
  • 自分流に考えた結果を信ずる
  • その責任は取る

もし過去を含め、人類全体の悉皆調査ができたならば、こういうことをやってきた、あるいはできた人間の方がきっと少数派です。少数の変わり者、変態です。

小林は「自分は何も特別なことをしてきたつもりはない。だから誰にでもできるはず」と、無邪気にも信じていたのかもしれません。

そして上の引用では暗に、2つ(以上)の選択肢が用意されていて、そのうえで「自分流に信じない」側を選び取っていると前提しているように感じられます。

違います。そうではありません。

小林の言う「集団的になる」人、「会がほしくなる」人の大半は、「自分流に信ずる」という選択肢が、はなから存在しないんです。だって「自分」なんていないんだから。

これが弱者の考え方、弱者の論理です。

ひょっとすると「自分」はたまた「個」というのは、人類史のスパンで評価すればすこぶる不自然な、相当に無理のある思想なんじゃないか。

人生もそろそろ終盤を迎えたこの年になって、やっとわかってきました。

「出典弱者」へのまなざし

限りなくクソダサいのを承知で自称してしまいますが、病的なまでに出典が気になってしかたがない出典マニアの私は、こと出典の世界においては間違いなく強者です。

たとえばひとつ前に書いた記事、追跡:「古事記ビジネス」に騙り継がれるトインビー「民族の神話」の系譜(2017/02/25)では、複数の「森友学園にお越しいただいた方々」も好んで使う「偽トインビー語録」の来歴について、かなりの程度、成立と流通の過程が解明ができました。

そしてさらに、「森友学園にお越しいただいた方々」周辺では、上記記事で書いた事例がほんの氷山の一角にすぎないことがその後の出典調査・研究によってわかってきました。

出典マニアから見れば、「アインシュタインの予言(Wikipedia)」を代表例に、典拠不明のおかしな話だらけなんです。

ミラン・クンデラの小説『笑いと忘却の書』からの引用もひどかった。誰も読んでねーだろお前らと思わず吐き捨てたくなるほどの惨状でした。ただし他の多くの事例とは違い、これは一応、元になるくだりは実在します。けれども文章の歪曲がひどい。あまりにひどい。まさに引用の耐えられない軽さでした。クンデラだけに。

また、この界隈の人らが金科玉条としがちな教育勅語に関しても、「西ドイツのアデナウアー首相が執務室にドイツ語訳を掲げていた」と、ほんまかいなと首を傾げてしまう怪しい話のみならず、「アメリカでは聖書に次ぐベストセラー」など、立ち止まって少し調べてみれば即座にウソだと知れてしまう話すら、まことしやかに流布されています。

などなどアレすぎる素材が次々と出てくるので、個別の事例よりもむしろその根底にある「病理」を考えていかにゃならんのじゃないかと思い始めました。

私はかねてから、特に出典について、事実の問題を一つひとつ丁寧に明らかにしていくことが地味ながら大事なことだと信じております。そこは今も変わりません。

しかしながら、虚偽のでたらめな情報、要はフェイクであるにもかかわらず、それに頼り、縋りつかざるを得ない人たちの心理について、その解明を図り、適切にケアしていくことがむしろ先決ではなかろうかと感じるようになってきました。そうした「弱者の側に立つ」という姿勢を取り入れることが、世の安寧と民草の幸福の実現につながりやすいのではなかろうかという感触を、直近の調査研究から得ている今日このごろです。

まとめ:「弱者」とは誰か?

  • 何らかの事情により、現実に即した判断・結論を出すことが著しく困難である人

これが今回の考察から導き出した、私の「弱者」の定義です。

森友学園をめぐる諸問題について国会で答弁に立つ政府首脳や関係閣僚・官僚も、あるいは大阪府知事を筆頭とする維新の党の諸氏もみな、この定義に当てはまります。みな弱者です。私の観察では誰もかれも、現実に即した結論を出すプロセスが歪んでいるからです。

引きつづき「弱者の側に立つ」を忘れず念頭に置きながら、ここらの問題を考えていくことにします。

ドラマ主題歌としてヒットしたこの曲でお別れです。

♪~
愛なき時代に生まれたわけじゃない
強くなりたい やさしくなりたい

やさしくなりたい(2011)
斉藤和義
¥250

後記

蛇足ながら、各キーワードの自分なりの定義も添えておきます。

」とは

  • 感情のうち、発信側で意志的に取り扱うことができ、かつ適温である(と人が認識する)もの

参考記事:日本語表現における「恋」と「愛」の物性の違い(2013/09/28)

強くなる」とは

  • いついかなる状況でも、現実に即した判断・結論を出せる(ようになる)こと

やさしくなる」とは、

  • 強さその他に由来する力を、弱者のために使う(ようになれる)こと

です。《やさしくなりたい》を聴きながら考えてみました。よろしかったら参考にしてください。

どこに立つか。それはあなたが決めることです。


家政婦のミタ(2011)

しかしこれも強者の論理です。

「弱者の側に立つ」ならこういうアプローチでしょうかね。

だよね。そこに立っちゃうよね。そこにしか立てないもんね。

知らんけど。

おわり

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