『大喜利社会の到来』序文(草稿)

I have a dream.

私には夢がある。

いつの日か、この国を大喜利社会にすることだ。

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Martin Luther King Jr.(1929-1968)

I have a dream.

私には夢がある。

すべての国民が共に手を取り、この国の、この国土の上にある、この社会の問題を、大喜利として考え合い、答え、解いていく社会を目指すことだ。

私には夢がある。

いつの日か、その、民族も、肌の色・髪の色・目の色も、宗教も、性別も、年齢も、出身も、学歴も、血糖値も、被曝線量も、既往歴も、収入も、総資産も、納税額も、可処分所得額も、ローン残高も、クレジットカードおよびWAONカードの有無も、さらにはその色も関係なく、たとえ貸し出しには審査があろうとも、たとえWAONカード提示ならさらに10%オフであろうとも、それとは何ら関係なく、すべての国民がひとしく大喜利の子として、共に手を携え、自由のために立ち上がれる社会にすることだ。

いつの日か、金持ちと貧乏人が、都会者と田舎者が、老人と若人が、その他ありとあらゆる強者と弱者が、みな同じテーブルについて、社会保障、税といった再配分のお題をはじめ、ありとあらゆるお題に答え、面白い解を見つけ出してゆく社会にすることだ。

自由なる大喜利!自由なる大喜利!

全能の大喜利の主のもとに。

解説

老人が唐突に夢を語りました。

少なくとも今の将棋界と同じ程度にまで、大喜利界を育てなければならない。

キング牧師の享年をはるか昔に追い越し、残る人生の時間の過ごし方と、そこで自分自身に課せられているはずの使命を考えたとき、そういう結論になりました。

現在でも、大喜利界のトップ層の存在は認められます。大喜利をテーマとするテレビ番組も複数あり、相応に高いレベルの大喜利が行われてはいます。

しかしながら、その層の厚みも、第一人者の集める尊敬も、ひいてはマネーも、まだまだ貧弱と言わざるを得ません。何よりプロ組織が存在しない事実が、大喜利界の貧弱さを物語っています。

目指すのは、この日本をもっともっと大喜利あふれる社会にすることです。スローガン風に言えば「大喜利豊かな社会」「大喜利ある街づくり」です。

一方、すそ野の側に目を向けると、社会への大喜利の広がりが全く足りていません。この現状は重く受け止めなければなりません。

既に今この時点で、この社会にはお題が山積みです。

なのに、お題の解き手が、それ以上に解法メソッドが、全く不足しています。深刻な大喜利不足の状態にあります。

大喜利の足りないこの社会は、お題の本質に迫った解をいっこうに求めようとせず、先送りという名の後回しばかりを続けています。

手が着けられているお題にしても、大喜利不足の世に育ち、大喜利のまったく足りないままに今日まできた人らが出す答えは、面白くないものばかりです。

  • このままこの状態を続けていると、どんな未来が待っているか?
  • いつ、誰が手を着けなければならないか?

そう自問したとき、答えは明白でした。もはや一刻の猶予もありませんでした。

「大喜利社会」とは、目指すべき未来社会を形作る基礎となるデザインコンセプトをひと言で表した言葉です。希望的観測を含めて述べますと、向こう150~200年間ほどは有効なコンセプトであろうと自負しております。

総論は本書『大喜利社会の到来』で、各論は続編の『日本列島大喜利改造計画』でと、2冊に分けて著述していく予定です。

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