先生と呼ばない(1)

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こんばんは。林修ナイトの時間です。

流行りの人に乗っかっとけ企画の対象に「今でしょ!」と林修さんを選び、かこつけてあれこれ発信することにしたこのブログですが、シリーズ展開にあたってまずおことわりしておきます。

一連の記事で、私は林修さんのことを、林修「先生」とは呼びません。

林さんに対して敬意がないからではありません。逆です。

直接教えを受けたわけでもない人を「先生」と呼ぶのは、自分にとって相手を馬鹿にする用法でしかないからです。

先生と呼ばないで

1) 吉行淳之介のケース

『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』という本に、吉行淳之介が「先生」と呼ばれるのを嫌っていたことが紹介されています。そんな吉行も考えを変えるときが来ました。孫引きですが引用します。

「先生」とは称号ではなく相手にとって安直な呼び方だと悟り、あきらめることにした。(吉行淳之介『贋食物誌』)

この記述を引いて、パオロさんはこのように考察を進めています。

(前略)「先生」が安直に感じられるのは、敬称だけで相手を呼ぶことができてしまうからなんです。相手の作品や業績をまったく知らなくても、それどころか相手の名前すら知らなくても、「先生」と呼んでしまえばとりあえず相手の顔を立てられるお手軽さ、誠意のなさ。呼ばれたほうもそれが見抜けてしまうから、こいつ、オレの本を読んだこともないくせに、なにが先生だ、としらけてしまうんです。(『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』 p.75)

安易に先生と呼ぶ心性の裏にある「誠意のなさ」というあたりの指摘は、同感です。

2) 中沢けいさんのケース

何かないかなと少しネットを探してみると、作家の中沢けいさんが、ご自身のサイトで

「文学者は先生という呼称をつかうべきではない」って教育された

と書かれていたのを見つけました(中沢けいコラム「豆の葉」2011年03月04日付より)。同じコラムからです。

今でも私は学生に「先生」と呼ばれると小説家として軽んじられているという不快感をちらっと感じたりします。学生にあんまり気難しいことを言ってエライ・エンセになるよりも、自分の不快感を胃薬みたいに飲み込んでしまうほうを選びますが。

中沢さんのことは何一つ存じ上げませんが、こういう感性を私も支持します。

で、もしもこれを「中沢先生のことは…」とやると無礼きわまりない用法になってしまうことは、通常の読解力を持った方なら理解いただけるかと思います。

同じ文章の中に、吉行淳之介にまつわるエピソードもありましたのであわせて紹介しておきます。

吉行淳之介に初めてあったときも、私の本が出たお祝いに銀座のレンガ屋によんでくれたのですが編集者から「ぜったいに吉行先生と呼んではダメだよ。吉行さんと言いなさい」と耳打ちされて、それでも「吉行さん」とは発音できないので、いかに主語を抜いてしゃべるかで、えらい苦労をしました。

調べてみると、中沢さんの初めての著書が出たのも、吉行がエッセイに「あきらめることにした」と書いた後のことです。編集者氏が必要以上に気を回した可能性もありますけれど、どうやら吉行の「先生」嫌い、実は直っていなかったようですね。

ではまた。

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