人をほめるなら、生きてるうちに―「お悔やみツイート問題」から考える

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人を誉めるなら 生きてるうちに
《死人》(詞:真島昌利, 1999)

バームクーヘン
バームクーヘン(THE HIGH-LOWS)

はじめに

こんにちは。有名人論と訃報論の交差点で考えます。

「お悔やみツイート問題」を知る

ツイッターを始めてから「お悔やみツイート問題」と総称される問題があることを知りました。

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「お悔やみツイート問題」の例

「お悔やみツイート問題」を論じたものには、たとえば次のようなものがあります。前日のラジオ放送のもようをテキストにした記事です。

こちらで提示されている論点は、主に次の2点だと理解しています。

  • 反応の早さを競う「ビーチフラッグ」になっているのではないか
  • そもそも「ご冥福ツイート」は、本当にその人の死を悼んで出されているのか

このほかにも、「お悔やみツイート問題」にはいくつかの類型があるようです。このキーワードで検索すれば、具体的な事例が幾パターンか出てきます。

お悔やみという名の業病

お悔やみとは、言わば人間の業病です。

Spread your disease like lemmings breeding
That’s what makes us humans being
《Humans Being》(Van Halen, 1996)

Best of 1
Best of 1(1996)

まず自身の態度を表明しておきますと、ツイートという手段に限らず、また有名人か否かにもよらず、僕は一般人も加わって世間で訃報が飛び交うことも、また、一般人が誰かの訃報に接して「お悔やみ」を出すこと自体も、否定しません。やればいいです。

訃報の扱われ方とその反応は、まさにレミングの繁殖のごとくはびこる業病、それこそが人性の本態、That’s what makes us humans being に思えるからです。僕はそれを否定したくない。二択で言い切るなら、肯定します。

ではありますが、主にネット界隈で見られる有名人無名人入り乱れてのお悔やみぶりに、不自由さ、窮屈さを感じてしまうことも否めません。

お悔やみの不自由さ、窮屈さ

お悔やみについて、自分はどこに不自由さ、窮屈さを感じているのだろうか。そこを考えてみました。

ふつう、訃報に接して故人を悪く言う人はいません。そんな具合に、内容にいろいろと無形の制約が課せられているからでしょうか?

しかしよくよく考えてみると、窮屈に思うのはそこではなく、むしろ「ビーチフラッグ」となっている現状なのでした。

より正確に述べると、どこかの誰かが公式に制定したわけでもないのに、「お悔やみ」が訃報を合図に始まるというルールになってしまっており、皆がなんだかそれに従ってしまっている。そこに不自由さの根源があるように感じられるのです。

死後にしか表明できないことか?

死んだ人よりも可能性がある
なぜならばオレは 生きてるからだ
《死人》(1999)

人の死を弔う言葉が「お悔やみ」なのですから、人が死ぬ前にお悔やみを出せないのは当然です。

しかしながら、ここでわき上がってくるのは、「それ、その人の死後にしか表明できないことか?」という疑問です。

というのも、「お悔やみ」の内容、とりわけ有名人の死に対するお悔やみの内容を検討してみると、「それ、死後にわざわざ表明するようなことか?」と思わざるを得ないような、陳腐きわまりないものばかりだからです。

陳腐さでは一般人も部外者的有名人も同じ

その陳腐ぶりは、一般人が出すお悔やみはむろんのこと、発信元が有名人であっても、故人との関わりが薄いか、ないしは一切ない人物であれば、距離感で言えば一般人と同様なのですから、変わるところはありません。以後一緒くたに「一般人」とします。

小まとめ

整理します。一般人による「お悔やみ」は、どれを取っても陳腐きわまりないものばかりですが、故人を悪く言っているものはありません。

そんなありさまならば、当人が生きているうちに、すなわち、当人にも伝わる可能性があるうちに表明してしまう方が、社会全体として幸福になる可能性がよっぽど高いのではないでしょうか。

いかに陳腐であろうとも、「人をほめるなら、生きてるうちに」です。

グッドプラクティスの例:ノーベル賞

陳腐か否かはさておいて、「人をほめるなら、生きてるうちに」を実践しているグッドプラクティスの一例が、ノーベル賞です。

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※画像は、nobelprize.org

ノーベル賞を運営するノーベル財団は、1974年に定款(Statutes)を改正し、授賞対象者を存命の人物に限る旨を定めています。もっとも改正前でも、ノーベル賞が受賞者の死後に贈られたのは2例しかありませんが。
(nobelprize.org > Nobel Prize Facts: Posthumous Nobel Prizes による)

ノーベル財団のこの方針は、素晴らしいと思います。

どの受賞者を例にしてもいいですけど、たとえば「自発的対称性の破れ」かっけー、ドクター南部△と、存命の本人に対し直接「あんたすげー」と功績を称えることに意義があります。

まとめ:「お悔やみ」にもほしい「自発的対称性の破れ」

厳かはイヤだ くだらない方がいい
笑えりゃなおいい 即死でたのむぜ
《即死》(詞:真島昌利, 1999)

罪と罰
罪と罰(THE HIGH-LOWS)

くり返しますと、一般人による「お悔やみ」の内容を検討してみると、死後に出す必然性が感じられない陳腐なものが大半です。それでも当該の人物をよく言っているのですから、むしろそのような「お悔やみ」は生前に出しておいて、あわよくば本人にも届く方が、社会全体がよほど幸福になるように思うのです。

そういうタイプのお悔やみを、南部博士の理論にちなんで「自発的対称性の破れ型お悔やみ」と呼んでおきます。

人をほめるなら、生きてるうちに

そう考えていくと、ここで具体名は特に出しませんが「自発的対称性の破れ型お悔やみ」を出しておくべき候補となる有名人が、僕にも何人かいることに思い至りました。

本日時点でどの方も存命であることは存じています。それでも僕にとって、その方は既に死んでいるのと変わりありません。僕が死ぬより先にその方が亡くなるとすれば、僕が訃報に接する日が1日後でも1年後でも10年後でも、その方を「お悔やみ」する内容は何ら変わらないからです。

本稿での議論をふまえれば、そのような「お悔やみ」を、死後に表明する必然性は薄いわけです。本当の「お悔やみ」になる前に実践するべく、スケジュールします。

人をほめるなら、生きてるうちに。

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