船橋市から感謝状を贈られて、ふなっしーが象徴的に抹殺された気がする

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こんにちは。

10月末のことですが、こんなテンションの下がるニュースがありました。

2013-12-04_1313

10月30日、大人気のご当地キャラクター「ふなっしー」に、松戸徹市長が感謝状を贈呈しました。

船橋市広報課により、贈呈式のもようがYouTube にアップロードされています。

なんだかふなっしーが、象徴的に抹殺されてしまった気がしました。トリックスターとしてのふなっしーは死んでしまったなと。

ふなっしーはトリックスターだった

誕生からブレイクまでのふなっしーは、まさにトリックスターでした。

トリックスターとは

ここでいうトリックスター(trickster)とは、「騙す者」から派生した、文化人類学の用語としての意味です。

いくつかの文献から引用することで、その意味と意義を確認しておきましょう。

ポール・ラディン「予備的ノート」(1954)

はじめに、泰斗ポール・ラディン(1883-1959)の「予備的ノート」からです。(『トリックスター』(1974)所収)

(皆河宗一訳・下線は引用者)

トリックスターは創造者であって破壊者、贈与者であって反対者、他をだまし、自分がだまされる人物である。彼は意識的には何も欲していない。抑えつけることのできぬ衝動からのように、彼はつねにやむなく振舞っている。彼は善も悪も知らないが、両方に対して責任はある。道徳的、あるいは社会的な価値は持たず、情念と食欲に左右されているが、その行動を通じて、すべての価値が生まれて来る。(pp.9-10)

笑い、ユーモア、アイロニーなどが、トリックスターのやるありとあらゆることに充満している。(略)けれども、聴衆が嘲けり笑っているのは彼のことなのか、彼が他人にするいたずらのことなのか、彼の行為行動が彼らに対して持つ含意のことなのか、それを決めることはむずかしい。(p.10)

まるで、ふなっしーのことを書いているかのようです。

山口昌男「今日のトリックスター論」(1974)

そして、日本でトリックスターと言えばこの人、山口昌男(1931-2013)も、こう述べています。

『トリックスター』の邦訳に寄せた解説「今日のトリックスター論」から引用します。

ふなっしーの成し遂げたことの意義をこむずかしく語るならば、さしずめこのようになるでしょう。

道化=トリックスター的知性は、一つの現実のみに執着することの不毛さを知らせるはずである。一つの現実に拘泥することを強いるのが、「首尾一貫性」の行きつくところであるとすれば、それを拒否するのは、さまざまな「現実」を同時に生き、それらの間を自由に往還し、世界をして、その隠れた相貌を絶えず顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を開発する精神の技術であるとも言えよう。(pp.294-295)

まあ自分なりに簡単に言いかえると、

みんな愛してるなっしー ヒャッハー!

ということです。

山口昌男『文化と両義性』による再検討

つづいて、山口昌男『文化と両義性』(1975, 2000)を引くことで、いくつかの側面からふなっしーの来歴とその意義を再検討してみます。

両義的な存在としてのトリックスター

「両義的」存在とは、秩序と無秩序のあいだにいる存在といった意味です。第3章「記号と境界」より。

秩序を確認するためには、境界を設定することが必須の前提であり、境界のイメージを生き生きと、想像力に働きかけるように浮び上がらせるためには、(略)この空間に出没する魔性の者を作りあげるのが最も有効な近道である。この魔性の者は、人間のまともな形(=シンタックス)という形で表される「秩序」の骨格と、動物的部分(=語)を備えていることが望ましい。(p.93)

ふなっしーが備える「非公認」という境界性と、さらには「梨の妖精」でありながら、人と共通の「シンタックス」をも持つ、すなわち人の言葉を使えることが、実に意味深長なのであります。

「放置」は理論的必然だった

山口は、同じく第3章「記号と境界」で、秩序から秩序への移行に一時的な混沌が求められる例として、空間的には「船舶が赤道を越えるとき」、時間的には「大晦日の夜十二時に大騒ぎをする風習」「エイプリルフール」などを挙げて、このように論述しています。

しかしこうした過渡的状態は、そのイコン的な過剰性の故に、人間の通常の経験の中には統合され難い。それゆえ、こうした過剰性はあえて禁忌(タブー)の領域に放置されることが多い。(p.96)

前に「ふなっしーに対する船橋市の「放置」姿勢を支持します」(2013/09/29)というブログ記事を書き、「放置」への支持姿勢を表明したのは、このような理論的背景もあってのことでした。

求められる「混沌」

また、山口は同書の第4章「文化と異和性」でこうも述べています。

文化は様々の記号を介して、「混沌」を自らのシステムの内側にとり入れようとする。一方では排除しつつも、それを文化の全体性の不可欠の部分として、人は混沌を片隅に追いやりながらも保持しておかなければならない。(p.105)

求められ殺された「混沌」

しかし残念ながら、感謝状の贈呈によってふなっしーが備えていた「混沌」の特質は保持されず殺されてしまった感があります。贈呈式はその儀式に思えました。

なぜなら、ふなっしーと船橋市との間に暗黙裡に存在していた、本来の意味での「テンション=緊張関係」が消えてしまったからです。

感謝される混沌はもはや混沌ではありません。その意味でもほんと、テンションの下がるニュースでした。

ふなっしーのこれから

思うに、ふなっしーは既にゆるキャラ、ご当地キャラの枠を超えて、いちタレントとしての活動分野に軸足を移しつつあるようです。

たまたまテレビでグルメリポートするふなっしーを見かけましたが(12/3 火曜サプライズ)、かなり達者でした。

今となっては望むべくもないですが、ふなっしーがそのトリックスター的特質を遺憾なく発揮していた暴れっぷりが懐かしく感じられます。

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