なぜ「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」のか

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こんにちは。名前を研究しています。

この記事では、名前を付ける境界線について考えていきます。

前回までのあらすじ

名前には4種類ある(2013/11/07)で、名前には

  • 名前を付ける対象の単位として
    「クラス」と「インスタンス」
  • 付いている名前の素材として
    「言語的」と「記号・番号的」

この2×2の組み合わせで4種類あると述べました。

本稿では、名前の素材については「言語的」に検討範囲を絞っておきます。一般的には、こちらが名前と認識されているようでもありますし。

事物それぞれで、「クラス」「インスタンス」のどこにまで名前が付くのか、名前の付く付かないの境界線はどこにあるのでしょう。各種の事例から帰納的に探っていきます。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」を考える

そこを考えるのに、これがいい例になるかと思います。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石『吾輩は猫である』の書き出しです。

よくよく見れば、面白いことを言っています。「猫」だって、名前ではありませんか。

つまりこの語り手は、「猫」も名前であるにもかかわらず、それを名前と認識していないか、それを「吾輩」の名前と認めていないのです。

オブジェクト指向的『吾輩は猫である』

引用した文章に名称付与の単位を補うと、こういう意味なのでしょう。

吾輩は「クラス名」猫である。「インスタンス」の名前はまだ無い。

ここからわかるのは、「クラス『猫』には、インスタンスにまで名前がある」というのがこの語り手の常識だということです。

余談ですが、入門したばかりで高座経験のない落語家の見習いも、名前がないといいます。高座に上がるときに名前をもらうと聞きました。この状態に似ています。

「まだ」無い、という言明の根底にある「猫にはインスタンスにまで名前があって当然」というこの語り手の自意識は、正当なのでしょうか。

「名前を付けるのは愛」仮説からのアプローチ

「猫」に名前がないのは、飼い主に愛されていない、大事にされていないことの表れという見方があります。

ひっくり返して、裏側から「名前を付けるのは愛」仮説と呼んでおきます。

定義の曖昧な概念の「愛」でありますが、そこはおいて、この仮説について検証してみましょう

次の2つの例から考えていきます。

1.クルマに名前を付けますか?

自分の乗るクルマに名前を付ける人がいます。

自動車にしろオートバイにしろ自転車にしろ、クルマにはそれぞれ生産者の付けた名前があります。そういう「クラス」の名にとどまらず、個別具体的な「インスタンス」に名前を付ける、というわけです。

こんなアンケートを見つけました。

愛車に名前をつける派?つけない派?

対象:みんカラユーザー (2011/05/27 12:00:00~2011/06/10 12:00:00)

集計結果

つけない 57% 901
つける  38% 603
過去につけていた 3% 60
合 計 1564

このデータをどう読むか、については

みんカラとは、あなたと同じクルマに乗っている仲間が集まるSNSです。(みんカラをはじめよう!!

だそうですから、「クルマ好きを自認する人たちでさえ、半数未満」と解釈するのが妥当ではないかと思います。

  • 「名前を付ける」人は「クルマを愛している」人

これは大方成立していそうですが、反対の

  • 「クルマを愛している」人は「名前を付ける」人

は成立しないように思います。

名前を付けない人の中にも、クルマを愛し大事にしている人は多数いるはずです。

2.名前のないポケモンたち

いくら愛していると言っても、相手は工業製品であって命のないものだし、という話もあるやもしれません。

では架空の生物ではありますが、この例はどうでしょうか。ポケットモンスター「ポケモン」です。

2013-11-09_chara_img01

※画像は「登場キャラクター」(tv-tokyo.co.jp)

こちらの画像の両者の名前について、名称単位の2分類を使い確認しておきましょう。

男の子は、ポケモントレーナーの「サトシ」です。これはインスタンスの名です。

で、ここが大事なのですが、一緒にいるポケモンの「ピカチュウ」、これはクラスの名です。

2013-11-09_1034

ポケモン図鑑(pokemon.co.jp)より

つまり、ポケモンの種を指す名前です。

ではサトシと行動を共にしているこのピカチュウを何というのかというと、この「インスタンス」には、どうも名前がないようなのです。

参考に見たWikipedia でも、このインスタンスを記述する項目の名前が「ピカチュウ(サトシのポケモン)」となっていました。

ですから、彼?が語り手となって

吾輩はピカチュウである。名前はまだ無い。

と小説を書いたっていいわけです。

サトシが、あるいは自身を含めた周囲が、このピカチュウに名前を付けていないのは、どういうわけなのでしょうか。

結論に代えて

結論としてまとまらないですが、中間的に。

検討してきて、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」の背景にある思想を無前提に受け容れるわけにはいかないように感じています。

名前を付ける境界線がどう決まるのか、その結論は出ていませんが、少なくとも「愛」とかそういうものは、関係なさそうです。

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